寺田寅彦の科学エッセイを読む

2012.11.16

『寺田寅彦の科学エッセイを読む』
(池内了編・祥伝社黄金文庫 平成24年7月30日)

先日来、能勢伊勢雄さんから「相似象の科学」について何度か話を聴く機会があった。
寺田寅彦や中谷宇吉郎、そして平田森三の科学の話だ。

寺田寅彦は、高校の頃から大好きで、岩波文庫の5巻の随筆集をずっと大切にしている。
その後でるさまざまな寺田寅彦の本も面白そうなものも
見つけたら手元においておきたくなる。
その弟子達の話もとても興味のあるテーマが多くある。

最近では、池内了という物理学者/随筆家が、
寺田寅彦の関係の本をいろいろ出しているのを興味深く読んでいる。
先日も、『寺田寅彦の科学エッセイを読む』(祥伝社黄金文庫)がでていたので、
個々の随筆はもっているのだけれど、
編集の仕方が面白いものだからついて買って読んでいる。
「花火」とか「線香花火」、「金平糖」、「自然界の縞模様」などなど、
何度読んでも興味の尽きないものばかりだ。
こういう科学者が多くいるなら、ぼくはひょっとしたら、
ずっと科学少年だったかもしれないと思うときがある。
しかし、実際の科学はそういう方向性とはほど遠いように見える。

科学は好きだけど、嫌いだ。
科学はどうして科学主義を生み出してしまうのだろう。
科学主義を生み出す人はすでに科学者ではない。
科学だけではない。
○○主義というのは、むしろ○○を侮辱することなのだろう。

科学に対してアンビバレントな感情をもたざるをえないのは、
主義だけではなく、科学が「科学では説明できない」というものに対して、
あまりにも自らを閉じてしまいがちだからだろう。
ほんとうに知りたいことの多くは、いまはまだ「科学では説明できない」ことばかりだ。
だからといって、信仰のような形態は少なくともぼくには似合わない。
ぼくにとって最重要なのは、納得できる世界観なのだから。
だから、つきつめた世界観のない科学も芸術も哲学も面白くない。

もうひとつ、身近な不思議に対する視線のない科学も好きになれない。
もちろんこれも、科学だけではなく、
身近なところや自分自身をふりかえることのない視線というのも好きになれない。
その部分は、決して自分を棚に上げてはいけないところなのだ。
身近にはさまざまな矛盾やどうしようもないことがあるのは確かだが、
少なくとも自分が自らを閉ざして誤魔化すような態度だけはとりたくないと切に思う。