坂口ふみ『ヘラクレイトスの仲間たち (人でつむぐ思想史 1)』

2012.10.31

 坂口ふみ『ヘラクレイトスの仲間たち (人でつむぐ思想史 1)』
(ぷねうま舎/2012.9.26)

キリスト教が「個」をつくった。
そのことをまとまった形の著作にした
坂口ふみ『<個>の誕生』(1996)からはさまざまなことを考えさせられた。
その後、『信の構造』『天使とボナヴェントゥラ』などの興味深い著作もある、
坂口ふみの新刊『ヘラクレイトスの仲間たち (人でつむぐ思想史 1)』
(ぷねうま舎/2012.9.26)がでている。

「個」として存在することについて、
日本では実質的にいって問題にされることはいまだ少ない。
たとえば、仏教にしてもいきなり「無我」に行き、
関係性の網のなかに「個」を相対化させる方向に行く。
西洋的な実体論的な思考に対するアンチテーゼ的な働きとしては、
非常に有効ではあるものの、
やはり「個」について「自我」について深く考えることなくしては、
それを克服することもまたむずかしくなる。
その意味で、坂口ふみの各著作は大変に貴重である。
とくに、今回の著作のシリーズは、そうした視点を
「人と思想史」で紡いでいくということなので、
これまでの著作よりはずいぶん読みやすいところもあるのではないかと思われる。

本書では、
「ヘラクレイトスの火、パルメニデスの天上遊行、プラトンの魂の馬車、
プロティノスの倒立する樹、アウグスティヌスの深淵としての記憶、
アンセルムスの思考の母なる教会、そして、デカルトのコギト・・・」と、
「個」として存在することをめぐってさまざまな思想史のテーマが展開されている。

なお、「人でつむぐ思想史」のシリーズは、
「人でつむぐ思想史II ゴルギアスからキケロへ」
「人でつむぐ思想史III ボエティウス」の刊行が予定されているとのこと。

Facebookでは、長くなるのでご紹介できなかったが、
「序章 ヘラクレイトスの仲間たち」から、少し。

「仏教はつねにあらゆる「網」を相対化し、網を脱することを教えてきた。しかし全体として見た時、脱する主体に名を与え、形を与え、言及することには奇妙に臆病だったように思える。(…)
 それに対し、西方では、自己の内に見ると思ったものに名を与え、自らがめざすべきだと思ったところに概念を与え、かりそめにもせよ実体のようにとらえることを努めてきた。神を立て、イデアを立て、魂を立て、ペルソナを立てた。そこにはもとより、陥穽があり、賢明な人びとはその一面性と危うさを十分意識していた。しかしそれにもかかわらず、あえて実体化するということ、名を与え、概念化し、とらえがたいものをかりそめにもせよとらえてみること、そこにはその理想を、さらにはその理想を批判するためのバネをすらつねに再び批判し、位置移動しうる「自己」をも明瞭に意識させるという利点があったように思う。可視化するということは、固定化することでもあったが、それに思いをめぐらせ、その働きを強める役目も果たした。」