風のブックメモ

マンフレッド・クリューガー『瞑想』


2007.6.4

■マンフレッド・クリューガー『瞑想/芸術としての認識』
 (鳥山雅代訳 水声社/2007.5.30発行)

「瞑想」というのをぼくはいまだによくわからないでいるけれど、
ごくごく個人的にいえば、それを「祈り」との比較でとらえているところはある。
ある意味で、「祈り」というのは「〜でありますように」というように
祈願にもつながるものであるのに対して、「瞑想」には「祈願」は似合わない。
そして、ぼくとしてはどうも「祈り」には苦手意識がある。
神社にいって、「〜をお願いします」とかいうのも、どうもセコイ感じがしてしまう。

とはいえ、「瞑想」というのも、
悪くすれば「妄想」になりかねないところもあるので、
そう違いはないのかもしれない。
そして、「瞑想」と「祈り」も、高次のあり方としては
区別のつけられないものであるようにも思っているが、
個人的なイメージでいえば、「瞑想」においては
「思考」が重要な働きをするということはいえるのではないかと思う。

最初に置かれている「日本の読者の皆様へ」に次のように述べられているが
本書には、シュタイナーをガイドとした「思考実践」としての「瞑想」が
とてもわかりやすく紹介されている。

   瞑想は、精神世界と地上世界をひとつにつなげる魂の小道です。これは
  思考の道なのです。しかしこの思考は、知覚へ、まずは思考の知覚へと導
  かれます。
   思考は思考しながらのみしか知覚することができません。ふつう、知覚
  される対象はあらかじめ与えられているものですが、思考の場合、知覚さ
  れるためにはまず思考によって生み出されなければならないのです。つま
  り、思考の知覚とは、思考の思考なのです。
   このことに最初に気がついたのがアリストテレスでした。そしてルドル
  フ・シュタイナーはアリストテレスの発見を、内的自由への道としてさら
  に発展させました。この本には、この内的自由への道に向かう個人的な体
  験が書かれています。
  (P.7-8)

シュタイナーのいう「思考」が理解されにくいところがあるのは、
「思考」が「思考しながらのみしか知覚することができ」ないからで、
思考できなければその対象も存在しないからである。
思考できないひとにとっては、思考は存在しない幻でしかない。
従って、思考できないということは、「内的自由への道」も辿ることができない。

著者は、「瞑想」を「認識芸術」としてとらえているが
その「瞑想の道をたどるためには、常に思考の練習を行なわなければな」らな いといい、
そこでいう「思考」は日常的な意味で「考えを持っていること」とはまったく 異なっているという。
瞑想における「思考」は、「思いや考えがわきおこってくる」ような受動的な ものではなく、
自分の自我が積極的に働く生き生きとしか活動でなければならないのである。
そしてそのなかで「瞑想」が深められていくことになる。
詳しくは、きわめて平易に書かれている本書に具体的にあたられることをお勧 めしたい。

さて、本書は、2002年に「東京賢治の学校」から刊行されたものが改訳さ れたもので、
シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』の
ある意味、副読本的な読み方ができるように思う。
ちなみに、同訳者・同著者による『<魂の暦>とともに』も昨年刊行されている。
どちらも精神科学理解のためには格好のものではないだろうか。