風のブックメモ

田中淳夫『割り箸はもったいない?』


2007.5.14

■田中淳夫『割り箸はもったいない?/食卓からみた森林問題』
 (ちくま新書658/2007年5月10日発行)

割り箸のことは以前から気になっていた。
割り箸が森林破壊に荷担するというような極端な見方もどうかと思っていたし、
「マイ箸」運動というような「運動」への疑問もあった。
塗り箸を持ち歩くことで、熱帯雨林の破壊に荷担しなくてすみ、
少なくともその意思表示をしようとするようなそれである。

部分だけを見て、そこに自分の偏見や主義を注ぎ込んで
極端な行動をとるひとというのは少なからずいるものだけれど、
環境問題というのは、そういうひとたちの温床になりがちなところがある。
もちろん、環境問題に対してあまりに無知な人が多いのは確かで、
そういう人に向けて過激な行動を誇示してみるというのも必要かもしれないが、
ある意味で、その両者というのはセットになっていると見ることもできる。
できれば、その両者だけをどこかに閉じこめて
当事者同士で解決してもらいたいものだという気もする。

それはともかく、本書は
「割り箸」をめぐる環境問題や森林と人間社会との関係について、
できるだけ大きな視点でとらえようとしているのがうれしい。
割り箸について、ようやくひとつの視点を得ることができたということもあるが、
割り箸にかかわらず、なんにせよ、物事をちゃんと見るということがいかに大切か。
その大切さについて、著者の真摯でいい意味で熱のこもった言葉を通じて、
深い共感を得ることができる。

本書のおわりのほうで、著者はこのように述べている。

    結局、どんな行為でも、そこには必ず利益と不利益が生じる。片方だけを
   取り上げるのではなく、両者を比べて、どちらが総体として有利か十分に検
   討する必要がある。そんな大きな視点を持って判断しなければ、環境問題は
   理解できない。森林と人間社会の関係もその中には含まれる。
    割り箸も、その大きな広がりと密な結びつきによって存在していることを
   忘れるべきでないだろう。たかが割り箸、たかが塗り箸だが、それらを通し
   て世間を見たら、新たな世界が見えてくるかもしれない。小さな木片の後ろ
   には、大きな地球環境と人間社会が広がっているのだから。
    私は、何も割り箸が絶対に必要だと決めつけているわけではない。もしか
   したら日本人の食生活自体が大きく変化して、割り箸が廃れて消えてしまう
   時代が来るかもしれない。それが時代の流れなら、私はとくに抵抗しようと
   思わない。
    しかし、間違った認識で割り箸が攻撃されるのは不本意である。また割り
   箸を取り巻く歴史や文化が失われるのは残念だと思っている。何より割り箸
   自体の価値を、私は高く評価している。
   (P.191-192)

自分の身近にある小さなことについて、私たちは無自覚でいることが多い。
そのすべてに大きな視点をもつことはもちろんむずかしいとしても、
あまりに無自覚であったりすることのないようでありたいものだし、
また、誰かが声を大にしてシュプレヒコールをしているのに反応して、
自分でちゃんと調べたり考えたりすることのないまま、
偏見にすぎないかもしれないことを絶対に正しいと思い込んだりなど
しないようにしたいと思う。

わからないことは、まずわからないことをちゃんと認めて、
わかったふりをしないこと。
また、わからないままでいいとも思わないこと。
なにせ、まず関心をもつことが必要なのだろう。
そして関心をもつということは、なにか少しそれを知ったからといって、
ひとよりも自分のほうがよく知っているとかいう過信もしないこと。
知るということは、自分が知らないことを知るということでもあるのだから。

環境問題に容易にファナティックな態度をとるひとのなかには、
自分は環境問題に意識的であると過信していて、
自分が何を知り得ていないのかを問題にしないひとも多いのではないだろうか。
それにうすうす気づいているがゆえに、「運動」をすることで
自分に免罪符を与えて安心してしまうようなこともあるように見える。

やはり、上記引用にもあるように、
「どんな行為でも、そこには必ず利益と不利益が生じる。片方だけを
取り上げるのではなく、両者を比べて、どちらが総体として有利か十分に検
討する必要がある。そんな大きな視点を持って判断しなければ、環境問題は
理解できない。」ということを
環境問題以外においても、しっかりと理解しておく必要があるのだろうと思う。