風のブックメモ

太田直子『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』


2007.4.27

■太田直子『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』
 (光文社新書/2007.2.20.発行)

字幕翻訳といえば、清水俊二に戸田奈津子。
戸田奈津子には名著『字幕の中に人生』(白水Uブックス)
というエッセイ集がある。
そのなかではじめて知ったことは多い。

たとえば、世界各国で外国映画を上映するときのほとんどが
吹き替えで、字幕が主流なのは日本だけだということなど。
吹き替えのほうが制作費が高いからというのではなく、
字幕のほうを日本人が好んでいるからという利用のようである。
識字率の高さに裏打ちされて
そこから実際の俳優の声で聞きたいというリアリティ指向が
生まれてくることになったようである。

とはいえ、字幕で表示できる言葉は
吹き替えるときの言葉の数よりも
ずっと少ない数になってしまう。

本書は、その字幕に表示される言葉の問題を
興味深くさまざまな角度からとりあげながら、
そこから最近の日本語の「変」さにも話が及んでくるのが面白い。

「字幕翻訳」という仕事をされている方が
今、日本でどのくらいいるのかわからないけれど、
このように言葉の表現にそれなりのこだわりをもって
仕事をしている方がいるのを知ると大変心強い。

著者は、ぼくと同世代に近い方なので、
そのあたりの言語感覚も近い感じもして、
その点でもとても共感をもって読むことができる。
ということは、たとえばずっと若い方にとってみれば、
ここで述べられている言語感覚も
ちょっとばかり違ってきているのかもしれないけれど。

さて、本書のなかで最近ぼくもよく感じる日本語表現について
述べられているところを少し。

   「〜させていただく」は、奥ゆかしく美しい正しい敬語のはずなのだが、
   近ごろ多用されすぎている気がする。多用だけならまだしも、現時点では
   誤用と談じざるを得ないような、妙にごてごてした言い方が耳につく。
   (…)
   おかしいな、と最初に気づいたのは、某人気アイドルグループの長寿バラ
   エティ番組だった。(…)「当店にメニューは一切ございません。お客様
   のお好きな料理を言っていただければ何でも作らさせていただきます」
   (…)
   「作らさせていただく」がいつまでも修正されず苛立っていたころ、いつ
   も行くショッピングビルのガラス扉に、こんな休業告知が張り出されてい
   た。
   「明日は休まさせていただきます」
   (…)
   繰り返すが、誤用もいつか慣用になる。なったらなったでしかたがない。
   でも字数を増やすのはなるべく勘弁してくれ、と字幕屋はひっそりと祈る
   のであった。(…)
   一字や二字の増減で一喜一憂する字幕屋のわがままなぼやきは、ほってお
   こう。それより、「させていただきたがる人々」の激増が気にかかる。若
   いタレントに多い。なんでもいいからとにかくへりくだれと事務所から教
   育されているのだろうか。
   (…)
   「させていただく」ににじむもうひとつのポイントは、「する」のではな
   く「させてもらう」という心情だ。つまり、主体的な意思よりも、相手の
   許可・裁量に重きが置かれている。一見、相手を第一に立てる美しき謙譲
   だが、裏を返せば相手に判断を委ねる無責任な態度にも感じられる。
   (P.109-113)

少し前になるが、「なにげに」という表現について書いたこともあるが、
どうも、無自覚なままに、花粉症のように伝染しはじめた表現が
いつのまにか常態になってしまうようなことは思いの外多い。
言葉は変わり続けるのは、それはそれでいいのかもしれないが、
その変化のはざまで、妙に稚拙に聞こえてしまったり、
その変化そのものの背景にある、あまりうれしくない心理を感じたりすると
そうした変化はあまり歓迎したくはない。

ぼくは広告制作の現場にいるので、
いわゆるその種の業界用語を多用する人たちの言葉を
日常的に耳にし、会話をすることも多いのだけれど、
そこで使われる業界用語の多くは
なんとも稚拙に感じられて仕方のないことが多い。
ぼくが古風なのかもしれないが、
たとえば「なるはやで」とかいう覚えたてのことばを
得意げに使っている新人などを見ていると、ちょっとした殺意さえ覚えてしまうのだ。

広告屋も広告制作の片隅で日本語が変だと叫んでいるのである。