風のブックメモ

佐伯一麦『鉄塔家族』


2007.9.8.

■佐伯一麦『鉄塔家族(上・下)』
 (朝日文庫/2007.7.30.発行)

実は、この佐伯一麦ことを先日までほとんど知らずにいた。
それが、先週からぼくの「佐伯一麦エポック」が続いている。

きっかけは、山田詠美のちょっと昔の対談集『メンアットワーク』(幻冬舎文 庫)である。
先日からこの対談集をはじめ山田詠美の作品などを久しぶりに読みながら、
書くことに必要な自己批評の必要性についてあらためて考える機会を得た。
つまり書いて面白いのではなく読んで面白くなければいけないということ、
そのためには、読むことそのものに批評性が不可欠になるということである。

山田詠美は「書くのが楽しくて楽しくてしょうがない人も私、よくわからな い」という。
書くのは「しちめんどうくさい世界」であって、
それが読むに値するものになるためには、それ相当のものが必要になるわけである。
実際、読むに値する文章というのは少ない。
とくに、最近では、こうやってネットで書かれる文章が
ブログなどを中心に夥しいものになっているが、
「自己表現をしたい」という素朴で自己満足的なものがほとんどである。
ぼくの書いているこうした文章は、「文章のお稽古」にすぎない拙劣なものだし、
そもそも書いて自己表現したいとかいう欲求も希薄である。
プロとして通用するだけの書く力をもつには、それだけの技術も必要だし、
それ以前に、読む経験も力も、批評性も欠かせないわけで、
それを持ち得た上で書こうとして、楽しく書けることはまずないだろうから、
そういうのはまずぼくにはできないだろうと思うのだ。

それだからこそ、ごくたまに出会うことのできる、
プロの作家の文章を読むことができたときには、大きな喜びになる。
その喜びを与えてくれたのが、この佐伯一麦である。

佐伯一麦の小説はいわゆる「私小説」にあたるものだが、
「読むこと」にかけてかなり辛口だともいえる批評家、福田和也も
佐伯一麦の作品についてこう述べている。
(佐伯一麦『ショート・サーキット/佐伯一麦初期作品集』
 講談社文芸文庫 解説より)

  「生きていく人間のあたり前の姿」を、過不足なく描く、そのことが
  いかに希有なことか、佐伯一麦の読者は、戦きとともに識る。

  ・・・ときどき私は、佐伯一麦の作品を読み返す。仕事とは関係なく。
  現存の作家の作品のなかでは、もっとも頻繁に読んでいるかもしれな
  い。佐伯の文章の一言、一言に、私が、文学にたいして切実に求める、
  結晶体のようなものがある。

ぼくはそもそも文学をそんなに読み込んでいるわけでもなく、
ましてや私小説的なものを読みたいとも思っていないほうなのだが、
佐伯一麦の作品を読み始めると、その文章に引き込まれていく自分がわかる。

今回、『鉄塔家族』を挙げてみたのは、福田和也のいう
「「生きていく人間のあたり前の姿」を、過不足なく描く」「希有さ」に加え、
そこには、著書のエッセイ集『散歩歳時記』(日本経済新聞社)でも
読むことができる、身近に観察することのできるような鳥やその他の動植物についての
「自然観照」がふんだんに盛り込まれているからでもある。
その分、「自然観照」に興味のない方には、むしろ煩雑にさえ思えるかもしれないが、
むしろ、「自然観照」のない方に、「読む」ことが可能かどうかを問うべきだろう。

ともあれ、読むに値する文章を読むという体験持てるのは幸福である。
ある意味、誰にでも、書けば書けてしまい、使えば使えてしまう言葉。
その安易さに身を委ねることなく、言葉を書くことができるということ。
現代のように、あまりに夥しい情報、夥しい稚拙な言葉の氾濫のなかだからこそ、
そのことを常に問いながら読む体験を重ねていければと願っている。