風のブックメモ

松岡正剛『千夜千冊 虎の巻』


2007.8.3

■松岡正剛『ちょっと本気な 千夜千冊 虎の巻/読書術免許皆伝』
 (求龍堂/2007.6.27.発行)

松岡正剛がウェブで連載している「千夜千冊」が
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya.html
全面加筆による再編集を経て全7巻+特別巻として書籍化されている。
これは松岡正剛へのインタビューというかたちでその全貌を案内したもの。

しかし、書きも書いたり、四年半。
ウェブの連載にもなかなか全部は目を通すことができないままだったが、
こうしてテーマ別にまとめられ、「虎の巻」的な解説がされてみると、
あらためて、松岡正剛という人の圧倒的なまでの広さと深さと
そして「編集」による知のネットワークの多層的な展開に驚くばかりである。

ぼくがいちばん影響を受けたのはシュタイナーだが、
それについで影響を受けているのはこの松岡正剛であるのは間違いない。
「神秘学遊戯団」の「遊戯」の「遊」は、
松岡正剛の編集していた雑誌「遊」からきている部分が大きい。

とはいえ、松岡正剛にならって「読書」の仕方や「編集」の仕方を
しているかといえば、そういうわけではない。
「セイゴウマーキング」さえ、とくにはしていないし、
読む本の数そのものも圧倒的に少ない。

この「読書術免許皆伝」を読みながらずっと考えていたのは、
むしろ松岡正剛から影響を受けなかったところ、
ぼくの関心にある松岡正剛的なものでないものことである。
もちろん、松岡正剛の知的宇宙の広大さには
とてもじゃないが追いつくことなどは露も思わなかったりするし、
松岡正剛がもしいなかったら、現代の日本がこれから進んでいくであろう
文化的状況には暗雲がたれ込める以外になすすべもなかったかもしれない
とも思っているのだけれど。

もちろん、ぼくがタバコを吸わないことと
松岡正剛が筋金入りの愛煙家であることは些細な違いだ。
そして小さな同一性は水瓶座生まれだということや、
それと、本書のなかで、グレン・グールドへのアンケートに
「バンザイ」しているようなところだろうか。
「嫌いなものは何ですか」という質問に対して、グールドは
「大衆、競争すること、芸術家の自慢、世代的ギャップ」と答えたそうである。

では、ぼくの関心にある松岡正剛的なものでないものとはなにかといえば、
妙にセンチメンタルな「ノスタルジー」がひとつと、
やはり、シュタイナー的な神秘学であり、キリストだろうか。

松岡正剛が神秘学的なものに対して、ある種の「ノスタルジー」を
感じていることは確かなのだけれど、それらは
ある意味「遊星的郷愁」として感じとられ、
それに関するさまざまなものが「編集」されはするのだが、
それが郷愁的な記憶を超えたところにまで至ろうとすることはない。
もちろんそれだからこそ、ここまで膨大な「知」の編集が可能になってくると ころがある。

「セイゴウマーキング」も松岡正剛が描く「ダイアグラム」も
「編集」を積分的にも微分的にも可能にするものであるがゆえに
それゆえの、なにがしかの「壁」がそこには立ちはだかってしまうところがある。
しかし、松岡正剛を読んでいていちばんどきどきするのは、
いつも、膨大な知の編集のところではなく、
むしろ表現できない部分において感じとられているであろうところが
かいま見えるところなのである。
そしてそこに松岡正剛は「ノスタルジー」を見出したりもする。
松岡正剛は「方法」をさまざまに自在に活用はするが、
もちろん「方法」にとらわれてしまうような愚に陥ったりすることも少ない。
けれど、なにかを踏み越えることを避けようとしているような
そんなことを感じることがある。

松岡正剛は、「千夜千冊」の第三十三夜に
シュタイナーの『遺された黒板絵』をとりあげている。
そこに、こう記されている。

  シュタイナーは何をしようとしたのだろうか。それを手短かに語ることは勘弁
  してほしい。シュタイナーを語るにはシュタイナー主義者になる必要がある。

もちろん、シュタイナーを語るためには、
むしろ、シュタイナー主義者になってはならない。
シュタイナーを語るためには、
ある意味、「ノスタルジー」としてしか表現したくないものを
目の当たりにすることが必要だといえるのかもしれない。
それはある意味、「キリスト」でもある。
それは、小林秀雄が「わからない」と率直に語りながら、
おそらく常にどこかで、その「ノスタルジー」の向こうを
のぞきこむ必要があると感じていたもののことである。