風のブックメモ

内田樹『街場の中国論』


2007.6.13

■内田樹『街場の中国論』
 (ミシマ社/2007.6.15発行)

昨年は内田樹の著書をよく読んだ。
ずいぶん読んだのでもうそろそろいいか、と思っていると
また別の書著が出たりしてまたついつい読んでしまう。

今度は「中国論」だ。
以前でていた『街場のアメリカ論』に続く「街場」シリーズ。

いまちょうど少しずつ中国語をかじっているというのもあるし、
そもそも現代の中国について納得いくようなものを
読んだためしがないのでちょっとだけ期待して読み始めたところ
あまりにおもしろいので一気読みしてしまった。
どんなエンターテインメントよりもずっと引き込まれてしまう。

内田樹があきないのは、
なにかを単純化して理解しようとはしないところだ。
わかりやすさのもっている落とし穴のことがよくわかっているからだ。
なにかを白黒はっきりつけるような言い方はしない。
白でも黒でも灰色でもなく白でも黒でも灰色でもあるような
そんな仕方で、いつのまにかテーマに肉薄しているようなところがある。
おそらくこういう語り口はある種の武道のようなところもあるのだろう。

逆に読んでいてうんざりするものというのは
なにかを白だ黒だというような決めつけ方をしているものが多い。
「おいおい、そんなに単純でいいのかよ」
と読んでいるこちらが驚くほどのようなものさえある。
しかもとんだお仕着せのような啓蒙になっていたり。
ベストセラーになっているようなものに多い。
「国家の品格」とか「美しい国へ」とかいったものとか。

単純な言葉がはらんでいる複雑さということを理解しないで
複雑なことを複雑なままに理解することの大切さが否定されてしまうと
そこにあるものは、ただ稚拙で短絡的なファナティズム以外のものではないだろう。

本書は、神戸女学院大学の大学院の演習を録音し
テープ起こししたものが原形になっているそうであるが
中国人のゲスト聴講生以外は、著者も学生も
中国問題の専門家がひとりもいないまま行われた演習だそうである。
そしてそのことが「よかったのだろう」という言い方をしている。
そしてこうも述べている。

  その「街場のふつうの人だったら、知っていそうなこと」に基づいて、
  そこから「中国はどうしてこんなふうになったのか?中国では今、何
  が起こっているのか?中国はこれからどうなるのか?」を推論しよう
  というわけです。
  そんなことが可能なのでしょうか。
  私は可能だと思います。

ずいぶん自信のある言い方ではあるけれど、それは
「情報が限られていても、自分の主観的なバイアスによる情報評価の歪みを
『勘定に入れる』習慣があれば、適切な推論をすることは可能である」
ということなのである。
もちろん、自分の主観的なバイアスを最小限に抑えられるとしたら
その筋の専門家のほうがずっと適切な推論は可能になるのだろうが、
悲しいことに、あらゆる専門家の多くは、
バイアスをともに極大化してしまう傾向と裏腹である。
つまり、自分はよく知っていると思うことがそのまま
色眼鏡になってしまうというわけである。

さて、本書はほんとうに「適切な推論」ができているのだろうか。
少なくともぼくにとっては、本書で中国を見る目が
ずいぶん変わったことだけは確かである。
あとはさらに自分でしっかり、できるだけバイアスを抑えて、
考え続ける、ということだろう。

ちなみに、いい装幀だな、どこかで見たことのある感じだと思ったら
本書の装幀は「クラフト・エヴィング商會(吉田篤弘・吉田浩美)」による。
いい仕事をしているのをこうしてみるとなかなか気持ちがいい。