風のブックメモ

福岡伸一『生物と無生物のあいだ』


2007.6.11

■福岡伸一『生物と無生物のあいだ』
 (講談社現代新書/2007.5.20.発行)

高校の頃、生物学の時間が好きだった。
DNAについてのめくるめくような物語もぼくを深く魅了した。
けれどもその後、なぜか急速に興味を失ってしまうことになった。
なぜだったのだろう。
そういえば、数学への関心度のグラフと比例しているところがある。

おそらくぼくのなかのどこかで、なにかがはじけてしまい、
それまで牧歌的なまでにシンプルなメロディを奏でていたものが
それまで不協和音だったものをも容れようとしたということなのかもしれない。

つまりは、そういう「シンプルに説明されることのできるもの」についての
異議申し立ての時代がはじまったということである。
世界は圧倒的に不可解で説明不能だということが不意にぼくを襲ったともいえる。
もちろんそれまでのぼくは、そういう不可解さに対応すべく、
ある限られた範囲であったとしても、説明可能なものを欲していたということだ。
しかし、それだけではぼくは立ち行かなくなってしまった。
下世話な言い方をするならば、生きることに混乱しはじめ、
死ぬことさえ考えるようになってしまったということだ。

そういう状態を脱するためには、長い時間を要したのだが、
今度は、神秘学などを理解しはじめるようになると、
別な意味で、DNA、分子生物学などへの興味はそんなになくなった。
世の中では、人間の遺伝子地図などがつくられたり、
遺伝子組み換えなどが日常茶飯になってしまっているわけだけれど、
むしろそういう向きに対して批判的にならざるをえない。
子供が刃物をもてあそんでいる感じがしてとても危ない。
原子力も同様であるように。

前置きが長くなってしまったが、
著者は分子生物学のばりばりの研究者で、
はじめに手に取ったときに、面白く読み進めることができるとは思っていなかった。
とはいえ、たまにはこういう書物もかじっておく必要がある、
ということで読み始めたのだが、
文章のすばらしさと著者の現在の基本的な姿勢もあり
大変有意義な時間を過ごすことのできた読書になった。

本書の本編の最後に、著者はこう記している。

  結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に
  扱うことの不可能性だったのである。(P.272)

本書のテーマは、タイトルにもあるように
「生物と無生物のあいだ」、つまり「生命とはなにか」である。
「プロローグ」に書かれているように、
20世紀の生命科学は、生命を自己複製を行なうシステムであるとした。
ワトソンとクリックのDNAの二重螺旋構造がそれを示唆している。

しかし、著者はその答えをそのまま肯定することはしない。
もっとダイナミックな流れがあるはずだというのである。
それを「動的平衡状態」としてとらえようとしているわけだけれど、
その背景には、著者が生物を機械的なものとしてとらえていないという
子供の頃からの生きた世界観が影響しているのだろうということが
本書からはよくわかる。
本書の「エピローグ」の最後にこう記されているように。

  私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようを
  ただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のと
  ころ、あの少年の日々からすでに自明のことだったのだ。(P.285)