風のブックマーク2004
「物語」編

 

梨木果歩『村田エフェンディ滞土録』


2004.5.13

■梨木果歩『村田エフェンディ滞土録』
 (角川書店/平成16年4月30日)
 
すでに今年はじめに刊行されている『家守綺譚』(新潮社)の双子のような物語。
主人公は、『家守綺譚』にも主人公の綿貫の友人としてでてくる村田。
考古学者で、その土耳古(トルコ)滞在記となっていて、
最後に、『家守綺譚』の「家」にその舞台が移ってくる。
 
『家守綺譚』を読み始めたとき、
夏目漱石の夢十夜と坂田靖子の漫画とが
合わさったような話だなという印象をもった。
いろんな物の怪などがでてきてとても楽しいのだけれど、
それが不思議な叙情を醸している。
梨木果歩の作品のなかでも出色の出来ではないだろうか。
 
今度は、考古学者の土耳古滞在記ということなので
(ちなみにエフェンディというのは「先生」というくらいの意味らしい)
化け物、物の怪はでてこないのかなと思っていたら
お稲荷さんやら、サラマンダーやらも登場してくる。
しかし物語は決してどたばたにはなっていない。
そして最後には、思わず感涙を誘うような感動がある。
 
私たちは「現実」という世界に生きていて、
その「現実」というのはともすればとても固定的で
有無を言わさぬような即物的な力で迫ってきたりもするのだけれど、
ほんとうはその「現実」といわれる世界はとても不思議に満ちている。
その不思議に気づいたとき、「世界」は変わる。
明らかに変わる。
そしてそれを変えるのも変えないで
固定的な現実にしがみつくのも
その人次第なのだ。
その固定的な現実をつくりだしているのもその人にほかならないのだ。
梨木果歩の作品を読んでいるとそのことがよくわかる。
しかもその人にはその人でしかありえない生き方や運命やがあって
それそのものから離れることはできないのだけれど、
そのなかで世界の不思議を生きようとすることはできる。
どこにいてもできる。
 
『家守綺譚』も『村田エフェンディ滞土録』も
百年ほど前の話になっているが
そうした不思議に対して世界は開かれているはずだ。
そしてその不思議は豊かさということでもあるのだ。
目に見えるものはそのまま即物的に目に見えるものではなく、
目に見えないものもそのまま目に見えないからないというのではない。
そのことだけはわかっておかなければならないし、
私がいてあなたがいて世界があるということ
そのことそのものが大いなる不思議であるということをこそ
日々実感して生きることがとても大切だと思うのだ。
 

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