風のブックマーク2004
「物語」編

 

小川洋子『密やかな結晶』


2004.1.31

■小川洋子『密やかな結晶』
 (講談社文庫/1999.8.15発行)
 
小川洋子というのは名前だけなんとなく目にしていたくらいだったけれど、
先日ご紹介した、クラフト・エヴィング商會の
『じつは、わたくしこういうものです』という架空の仕事の物語のなかで、
「冷水塔守」の星加見子として、自ら希望して出演していたということから、
面白そうな人だからその作品も読んでみようと思っていた矢先、
2月号のユリイカの特集が「小川洋子」だった。
こういうシンクロニシティはやはり逃さないほうがいい。
 
調べてみると、1988年頃から作家活動をはじめ
それ以降かなりの数の作品を発表しているのがわかる。
とはいえ、書店に並んでいる作品は驚くほど少ない。
CDもそうだが、こうした作品も、
店頭に並んでいる期間はますます少なくなっているようである。
なおのこと、この際、その作品にふれておこうと思い、
いつくか物色したなかで、1994年に刊行された
この『密やかな結晶』という長編を選ぶ。
読み始めたところその静かな語り口にもかかわらず
あっという間に400ページほどを一気読みすることになった。
これまで読んでなかったのが惜しまれる・・・
というか、これからたくさん読めるのでうれしい、というか。
 
エッセイ集『妖精が舞い降りる夜』(角川文庫)の
「文庫本のためのあとがき」のなかで
著者自身がこの作品をこのように紹介している。
 
        一つずつ、事物を認識する力が失われてゆく話です。例えば、
        ある朝起きると、みんなが鳥についての記憶を失っている。
        それは昨日までと同じように空を飛んでいるのに、その意味
        も役割もさえずりの美しさも心の中から抜け落ちてしまって
        いる。こんなふうにして、あらゆるものが消え去ってゆくの
        です。
 
主人公は小説家なのだけれど、「小説」も失われてゆく。
あげくは、足も手も・・・と続きすべてが失われてゆく。
失われるというのは、その概念というか認識というか、
それがあるということそのものが失われていくのであって、
それが失われると、そこにモノとして存在しているとしても、
それがあるということそのものが
まったく認識されなくなってしまうということである。
 
これはある島での話なのだけれど、
その島に住むほとんどの人が
次々にさまざまなものを失っていくのだけれど、
それを失わない人もいて、そうした人たちは
秘密警察に追われてゆく・・・。
 
これはかなり荒唐無稽なまるでSFのような物語なのだけれど、
「事物を認識する力が失われてゆく」ということを思えば、
これは世の中をふりかえってみたときに
ただの荒唐無稽さとして面白がるわけにはいかない。
多くの人は、「事物を認識する力」を
みずから進んで投げ捨て続けているようにも見える。
というよりも、「事物を認識する力」の可能性に対して
あまりにも開かれずにみずからを閉ざしてしまっている。
 
別の見方をすれば、人はこうして生まれてくるときに
それまでの記憶を失った状態で生まれてくる。
つまり、事物を認識する力を、
生まれてから獲得していかなければならない。
しかしプラトンもいうように
ある意味で私たちは「想起」しているのである。
教育はドイツ語でも引き出すという意味だが
それはまさに「想起」でもある。
しかし「想起」するための自己教育がなされない場合、
可能性が開かれないままになってしまう。
忘れ果てたまま、忘れたということさえ忘れてしまっている。
 
・・・とまあ、そんなことなどあれこれ考えながら
面白く読めた作品がこの『密やかな結晶』。
他の作品もとても楽しみである。
 
 

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