風のブックマーク2004
「物語」編

 

いしいしんじ『絵描きの植田さん』


2004.1.7

■いしいしんじ=作 植田真=絵
 『絵描きの植田さん』(ポプラ社/2003年12月10日発行)
 
いしいしんじの紡ぎ出す言葉はなんてあたたかいんだろう。
ほんのさりげない、けれどとても繊細な言葉のなかから
ぼくの目頭を熱くさせるものが生まれ出てくる。
こんなお話はちょっとほかでは読めない。
一文一文がぼくにはとても愛おしいものに感じられる。
 
今回はなかに10枚ほどの水彩画が収められている。
お話しのなかにでてくる植田さんは
この絵を描いた植田さんをモデルにしているのかもしれない。
登場人物の植田さんは事故で耳がほとんどきこえなくなっているが、
その植田さんの変容が描かれている山での印象的な場面がある。
 
        自分はずいぶん長く、この世の物音をきこうとしてこなかった
        のかもしれない。耳が悪くなっただけじゃない、みずから耳を
        ふさぎ、かたく身をちぢめ、音を遠ざけていたんだ。それはま
        た、自分で音を出さずにいる、ということでもある。ちょうど
        冬の山奥で凍りついた岩のように。
        ・・・
        もうじき春だ、と植田さんはひとりごちる。
        自分も耳を開こう。耳をすますすべを少しずつ身につけ、この
        世の営みにできるだけ両の目をむけよう。
        絵を描くことが、自分の音だ。かすれがちであっても、それこ
        そが自分の営みなんだ。
 
ぼくにこの変容はおとずれるのだろうか。
そもそもぼくの音というのはいったいなんだろうか。
ぼくの営み・・・。
 
もうひとつ印象的なシーン。
植田さんと仲良しのメリの言葉。
 
        ねえ、みんな!いまままで知ってた?考えたことがあった?
        ほとんど自慢げに胸をそらせ、輝くような声でメリは言った。
        私たち、こんなすばらしい世界に住んでるのよ!
 
世界がどのように見えているか。
それはそのまま自分を見ている姿にほかならなかったりもする。
できうれば、深い悪をもしっかり目を開いて見ていながらも、
「私たち、こんなすばらしい世界に住んでるのよ!」という言葉を
ほんとうにいえるようでありたいと思う。
矛盾を超えた世界の光明荘厳化へ!
 
いしいしんじの視線は、その向けられた世界を巧妙化する。
帯に「その瞬間、世界が色つきになった。」とあるが、
モノクロームの世界にその言葉の息で
色をつけているようなところがある。
そういう視線をもてたらどんなにか素晴らしいだろう。
ぼくの大きくはるかな目標のひとつでもある。
 
いしいしんじの描く物語は決して大げさなものではないけれど、
どんな大げさな物語よりも世界を変容させる力に満ちている。
これからも目が離せない。
 
 

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