風のブックマーク2004-2005
「物語」編

 

堀江敏幸『河岸忘日抄』


2005.3.17

□堀江敏幸『河岸忘日抄』
 (新潮社/2005.2.25.発行)
 
学生の頃、金井美恵子の『岸辺のない海』という小説に惹かれていた。
岸辺のない海、という、どこにも碇を降ろさず
常に海を航海しつづけているイメージが、
そのころのぼくの心の襞にふれてきたといえるのかもしれない。
 
それに対して、この『河岸忘日抄』は、
河岸に着岸したままの船を住処とした「彼」の「停滞と逡巡」の物語。
今のぼくは、『岸辺のない海』を航海し続けるというよりも、
『河岸忘日抄』のほうが近しく感じられるところがある。
 
ひょっとしたら、『河岸忘日抄』の「彼」も、
かつては『岸辺のない海』を航海していたのかもしれない。
ひょっとしたらそれが時間を経るにつれて内面化し、
その船を河岸に着けたまま、
今度は、自分の内面を航海しつづけるようになった・・・。
そしてある意味では、そこにこそ「岸辺」は見あたらない。
 
ある意味、岸辺のないままに河岸に着岸しているような
そんな矛盾的状態のことを「鬱」と呼ぶこともできる。
鬱という「停滞と逡巡」の状態。
ぼくにはそんな状態にずっと親近性を感じ続けているのだが、
それが若き日には『岸辺のない海』的な状態に惹かれ、
今では『河岸忘日抄』という状態のなかに自分を見いだす。
おそらくは時間の流れ方が変容してきているとこがあるのだ。
年を経るごとに変化する時間という生き物。
まあ、少しなりともそれが感じとれるようになっただけでも、
年をとるということに意味があるといえるのだろう。
 
さて、本書は淡々と綴られていく「彼」の日記のような物語だけれど、
その淡々としたなかにさまざまな発見があっておもしろく読める。
 
たとえば、「風の薔薇」についても書かれていたのだが、
「風の薔薇」というのは、フランス語で、
「三十二の区分けで風向きを示す羅針盤のこと」だという。
そういえば、今は水声社からでているシュタイナーの訳書は
当初、「風の薔薇」から刊行されていた。
そうなのか、羅針盤のことだったのか、と不思議に腑に落ちた瞬間。
淡々としたなかで、そんな瞬間を味わえるのも、
本書を読み進めることの楽しみのひとつだといえるのかもしれない。
 
ちなみに、著者は昨年『雪沼とその周辺』が静かに話題を得た堀江敏幸。
その文章の静かな記述というのは、いつもなかなかに味わい深い。
 
 

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