風のブックマーク2004
「詩」編

 

八木幹夫詩集


2005.2.12

□八木幹夫詩集
 (思潮社/2005.1.25.発行)
 
現代詩と現代音楽というのは、
読者も聴取者もかなり少なそうだ。
「現代」が「現代」でなくなってしまっているわけである。
 
詩のようなものや
音楽のようなものは
それなりにポピュラーになっていて、
そちらのほうはずいぶん「現代」なんだけれど、
さきほどの現代詩と現代音楽とはちょっと別物になっていることが多い。
 
面白い現象だけれど、
そういう不思議な「乖離」というか「矛盾」というのが
「現代」ということなのかもしれない。
その「乖離」や「矛盾」を体現しているのが
20世紀以降絶えずに華々しく行われ続けている戦争なのだろう。
 
シュタイナーによれば、かつての時代は
歳とともに叡智は増していったが、
現代はそうではなくなっているという。
そのためにはそれなりのものが必要なのだ。
あたりまえのことだけれど。
 
こうして目に見えるものやお金やわかりやすいものや、
不快を廃した快楽やらばかりが
数多くの人たちに支えられてくるような
「民主的」な時代になると、
早い話が、わかりにくいのはダメだということになってきて、
結局のところ、一見わかりやすそうないろんなものが
マスの力をもって席巻してくることになる。
しかし実のところそれのほうがずっとむずかしいことなのだ。
戦争がほんとうはとてもむずかしいものであるように。
 
前置きばかりになってしまっているが、
この八木幹夫という人の『野菜畑のソクラテス』(1995)という詩集は
そういう類の、現代詩と詩のようなものとの矛盾を超えているところがあって、
そこがすごく新しいのではないかと思っている。
 
この『八木幹夫詩集』の巻末に収録されている
井上ひさし・松山巌・井田真木子の鼎談のなかで、
井上ひさしが次のように述べているが、
ユーモアのあるきわめて平易な言葉遣いのなかに
ふつうはスポイルされてしまいかねないような
ある種の感受性をさらりと隠し味のような味わいを込めている。
 
	この詩集は、我々が営む日常生活、単純なことの繰り返しだけれど、
	ひとつひとつがとても大切な生活というものに入ってきています。
	そして読者に、日常を発見させる。つまりなんでもない日常を宝石
	に変えてしまう。そこがすてきですね。
 
ふつうは、日常は発見されないものなのだ。
日常はそこに埋没するものとなる。
そこにころがっている石も石ころでしかないし、
そこでさえずっている鳥も
その生態を知ろうとさえ思わないような日常の鳥でしかない。
 
じつのところ、日常が非日常に変換され
その上で日常が日常へと変容されるというのは
もっともむずかしいことなのだ。
それは、禅で、柳は緑、花は紅、というようなもの。
あたりまえがあたりまえでないものであるがゆえに
あたりまえのものとして現出するという不思議。
 
しかしそのわかりやすさというのは、
読者によってはそれをまるで
そのまま日常発見!というストレートとして
受け取ってしまうことも多いのだろうと思う。
そのストレートボールはわりとまっすぐで
少しシュートしているくらいなのかもしれないけれど、
ひょっとしたらものすごく複雑にスピンしているのかもしれないのだ。
そしてそうでなければ、「なんでもない日常を宝石に変えてしまう」ことなんか
まずできっこないというところは基本的に意識しておいたほうがいい。
それが、現代詩の現代詩たるゆえんのものかもしれない。
 
ともあれ、この八木幹夫という詩人を知ったことは、
ぼくのなかで「なんでもない日常を宝石に変えてしまう」魔術を
ひとつ手に入れたようなそんな意味をもっているのかもしれないと思っている。
 
 

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