小池昌代という詩人のことは、思潮社の現代詩文庫で知った。 (『小池昌代詩集』(現代詩文庫 ) (思潮社 2003/12)) すでに買ってから1年近く経っていて、 手を伸ばせば手に取れる距離にずっと置いてあった。 おりにふれてめくってみるのだけれど まとまって読んだのはつい先日のことだ。 詩のことばというのは、 すうっと入ってくるときとそうでないときが ほかのことばよりもずっとはっきりしている。 少なくともむりやり入り込ませるようなことばではない。 音楽にもそういうところがあるけれど、 音楽の場合は否応なく耳に入ってく環境もあったりするのに対して、 詩の場合は、こちらから読み始めなければまず入ってくることはない。 そうして入り込んできたことばは おもいのほか、ぼくのなかに静かで深いさざ波を立てることになった。 そうして現代詩文庫を読み終えた後、 今度は今年にでた小説集『感光生活』(筑摩書房 2004/06)なども読み、 さらに今はエッセイ集『屋上への誘惑』(岩波書店 2001/3)を読み進めている。 詩よりも小説やエッセイのほうが、そのさざ波は大きい。 静かなことばなのだけれど、その静かさゆえに、 いつのまにか襞のなかから回折して入り込んでくる。 なぜなのだろう。 それをずっと考えている。 というよりも、耳をすませているといったほうがいいか。 たとえば、こんなところが妙に印象に残っている。 『小池昌代詩集』に載せられている書き下ろしの散文から。 わたしはじっと見る。ものが消えたあとを。消えたあとに残された 不在の穴を。その穴に降り積もる、みずみずしい時間を。 (P129) また、詩集『永遠に来ないバス』に収められている「蜜柑のように」という詩から。 私たちの遅さ 蜜柑一個 わたしたちはいつも それぐらいの何かを欠いて生きている そして、エッセイ集『屋上への誘惑』に収められている「言葉のない世界」から。 人と話をしていて、話題がとぎれることがある。その瞬間のまの悪さ が、私は実は、案外好きだ。話すことなど、もう何もない。ーーその虚 空のなかに身を置くと、ないことのなかに、やがてゆっくりとし充ちて くるものがある。話題を探すのではない。私たちという存在が、こうし ていつも、遠くからやってくるものに、手繰り寄せられ、探されるのだ。 さあ、話しをしよう。 (P10) こうした箇所が詩人の個性を代表しているとは思えないし、 詩人については『小池昌代詩集』にある井坂洋子の詩人論が詳しいが、 ぼくの印象にのこっているのは、 ここに引用したようなある種の「不在」を生きる姿勢だ。 私たちは「不在」を生きている「存在」である、とでもいえるような 不安定な虚空のなかにいるのではないか。 ぼくに入り込んできたのは、おそらくそんなことばだ。 そしてその場所はぼくのなかの虚空なのかもしれない。 |