風のブックマーク2004
「写真」編

 

大竹昭子『眼の狩人』


2004.1.20

■大竹昭子『眼の狩人/戦後写真家たちが描いた軌跡』
 (ちくま文庫/2004.1.7発行)
 
仕事柄カメラマンと話す機会も多く、
写真についてある程度関心はもっている。
広告の仕事を始めたときにも、
カメラマンに相談してコンパクトな一眼レフを購入し、
写真についての基礎知識を教えてもたったりもしたが、
写真について深く考えるというほどではなく
自分で撮影するのもときたまスナップ程度でしかなかった。
 
写真をよく撮り始めたのは
デジタルカメラを購入してからのことになる。
手間があまりかからないで撮影できるからという単純な理由だ。
しかし不思議なことに、今ではデジカメしか使わないものの
ここ数年、どうも写真と写真家のことが気になりはじめるようになった。
少し前にも、飯沢耕太郎の『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)や
『写真とことば』(集英社新書)などを読んだりしていた。
 
今では、とくにシャッターを押すだけで
液晶モニターに写った画像が記録されるほど
写真撮影はほんとうに簡単になってしまっているとはいえ、
写真撮影というのは基本的にファインダーをのぞいて
そこに見えるものを写し出す基本は同じである。
写生絵画を写真のようだと形容される変なことも起こるけれど
絵画を描くというのとは基本的に異なっている。
 
いったい写真というのは何なのだろうか。
また写真家というのはどういう存在なのだろうか。
本書、大竹昭子『眼の狩人』を読み始めて
あらためてその問いがぼくの前に現われてきた。
というか、大竹昭子が戦後を代表する14人の写真家に
取材して書かれたその視線にぼくも吸い込まれるようにして
その問いに共振してしまったといったほうがいいかもしれない。
ぼくにはその14人のうち半分以上はじめて知った名前だったのだけれど
それぞれの章を読むごとにぼくはそれぞれの写真家のことが
気になって気になって仕方がなくなっていった。
できれば紹介されていた写真集を機会を見つけて
じっくりと見てみたいと思っている。
 
さて、あとがきの「写真のかなたへ」の章で
次のように写真とことばとの関係についてふれられているが
その問いも写真を問い直すときの重要な視点である。
言葉で解説できるとしたら写真は不要だというのは当然だけれど
だからといって写真がまったく言葉から自律しているかといえば
そうともいえないところがある。
とてもむずかしい。
 
        シリーズ全体を通して常に関心の根底にあったのは、ことばと写真
        との関わりだった。それは写真を撮ることと、書くことへの私自身
        のこだわりと無関係ではないだろう。写真を意味的世界に対置させ
        ることで、写真の本質を明らかにしたいという気持ちが強くあった。
        中平卓馬の章でその主題は大きく展開され、写真家にことばはいら
        ないということを主張しつづけた柳沢信氏の章でふたたびそこにも
        どった。また藤原新也氏の章では彼の書くことと撮ることへの葛藤
        に深いシンパシーを覚えた。また、荒木氏の章では、両刀を振りま
        わすのではなく、写真の内部にことばをとりこんでしまうスケール
        の大きさに驚かされた。
        (P361-362)
 
さて、本書を読み進めていくなかで
もうひとつずっと気になっていたのが
戦後の歴史と写真との関わりについてである。
本書でとりあげられている写真家は
多かれ少なかれ社会運動の激しかった60年代を
その活動の背景としてもっている。
本書を読みながらあらためて思ったのは
あたりまえのようだけれど、どんな表現も
その時代と深い関わりをもたざるをえないということだった。
批評ということがでてくるととくにその影響関係が濃厚になる。
もちろんそれだけに還元して見るというのもあまりに貧しいのだが、
写真家とその作品、そしてそれを見る視線において、
写真の色濃くもっている歴史性というのは無視できないだろう。
 
しかしその点で面白かったのは、
最後にとりあげられている篠山紀信である。
写真家のなかの知名度ではもっとも高いであろう篠山紀信であるが、
その写真が批評される機会はきわめて少ないという。
写真美術館に作品展示されたり国際展にまねかれたりすることもまれだという。
もちろん時代との関わりが希薄だというのではないだろう。
そこに「作品」としての写真という問題の複雑さが
関係しているようにも思えるのだけれど
その点はこれからもあらためて考えてみる必要がありそうだ。
 
 

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