風のブックマーク2004-2005
「音楽」編

 

内山眞理子『ベンガル夜想曲』


2005.2.25.

□内山眞理子『ベンガル夜想曲/愛の歌のありかへ』
 (つげ書房新社/2005.1.10.発行)
 
バウルの歌についての美しい一冊。
 
バウルをはじめて知ったのは、
ラジニーシの『バウルの愛の歌』(めるくまーる社/1983.9.発行)だった。
バウルは、インドのベンガル地方をさすらう風狂の吟遊詩人たち。
エクターラと呼ばれる一本弦の楽器と小太鼓だけを携え、
「いかなる宗教にも属さず、ただ歌い、踊り、自在であることによって
アダール・マヌシュ(本質的人間)に至ろうとする」人たちである。
その歌がどんな歌なのかその後も聞く機会はなかったが、
バウルの歌はぼくのなかのどこかで常にあこがれをもって
歌われ続けてきたといえるのかもしれない。
 
その後、バウルについて耳(目)にする機会はまったくなかったが、
20年以上ぶりでバウルに出会えたのがこの一冊である。
著者は、タゴールの研究家・訳者でもあるようだが、
本書はそのバウルを訪ねた旅の記録でもある。
バウルに出会ってしまった人の美しい話。
 
久しぶりに読み返してみたラジニーシの『バウルの愛の歌』は、
あいかわらずとても美しい。
こんな美しい話はまずほかでは聞くことができないだろう。
ラジニーシのなかでもとくに美しい話のひとつなのではないだろうか。
 
これはどうしてもバウルの歌をきいてみたいものだと思い、
探しているうちに、「小泉文夫の遺産/民族音楽の礎」の37巻に
「ベンガルのバウル」という巻があることがわかり
やっとはじめて聞くことができた。
20年ぶりで願いがかなうことになる。
 
ここでは3人のバウルの声を聞くことができる。
ハーレクリシュナ・ダース、ディーノ・ボンドゥ・ダース、
そしてブローラッド・ブラフマーチャリ。
残念ながらこれだけでは歌の内容はよくわからないが、
それぞれがとても個性的で美しい。
やっとバウルの声を耳にすることができたのはとてもうれしい。
 
しかし、バウルの歌の内容は、ラジニーシの本でも、
本書『ベンガル夜想曲』でもその一端を知ることができる。
とても美しい詩である。
それが歌われるところをイメージするだけで、
ぼくのなかの歌が息を吹き返してくるようなそんな気持ちになる。
 
	バウルはどんな儀式にも従わない。
	彼らはどんな技術も持っていない。
	彼らはどんな慣習ももっていない。
	だから、似通ったバウルは二人と見つけ出せない。
	彼らは<個>たちだ。
	その反逆が、彼らをして真正な個になるよう導いてゆく。
	・・・
	バウルにはどんな組織もない。
	だから、それぞれのバウルが個なのだ。
 
これは『バウルの愛の歌』の比較的最初にある言葉だが、
こんなバウルになりたくないと誰が思うだろう。
ラジニーシは、我ー汝を落とせというが、
そのことではじめておそらくは<個>が可能になるのだろう。
 
バウル・・・・。
ぼくのなかでバウルが歌い出し、踊り出す。
それと矛盾するかのように、
ぼくのなかのバウルは口を封じられていることがあまりに多い。
しかし、バウルを知ったということは、
バウルでないことはもはやできないということだともいえる。
ぼくのなかのバウルの声よ、永遠に。
 
 

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