□内山眞理子『ベンガル夜想曲/愛の歌のありかへ』 (つげ書房新社/2005.1.10.発行) バウルの歌についての美しい一冊。 バウルをはじめて知ったのは、 ラジニーシの『バウルの愛の歌』(めるくまーる社/1983.9.発行)だった。 バウルは、インドのベンガル地方をさすらう風狂の吟遊詩人たち。 エクターラと呼ばれる一本弦の楽器と小太鼓だけを携え、 「いかなる宗教にも属さず、ただ歌い、踊り、自在であることによって アダール・マヌシュ(本質的人間)に至ろうとする」人たちである。 その歌がどんな歌なのかその後も聞く機会はなかったが、 バウルの歌はぼくのなかのどこかで常にあこがれをもって 歌われ続けてきたといえるのかもしれない。 その後、バウルについて耳(目)にする機会はまったくなかったが、 20年以上ぶりでバウルに出会えたのがこの一冊である。 著者は、タゴールの研究家・訳者でもあるようだが、 本書はそのバウルを訪ねた旅の記録でもある。 バウルに出会ってしまった人の美しい話。 久しぶりに読み返してみたラジニーシの『バウルの愛の歌』は、 あいかわらずとても美しい。 こんな美しい話はまずほかでは聞くことができないだろう。 ラジニーシのなかでもとくに美しい話のひとつなのではないだろうか。 これはどうしてもバウルの歌をきいてみたいものだと思い、 探しているうちに、「小泉文夫の遺産/民族音楽の礎」の37巻に 「ベンガルのバウル」という巻があることがわかり やっとはじめて聞くことができた。 20年ぶりで願いがかなうことになる。 ここでは3人のバウルの声を聞くことができる。 ハーレクリシュナ・ダース、ディーノ・ボンドゥ・ダース、 そしてブローラッド・ブラフマーチャリ。 残念ながらこれだけでは歌の内容はよくわからないが、 それぞれがとても個性的で美しい。 やっとバウルの声を耳にすることができたのはとてもうれしい。 しかし、バウルの歌の内容は、ラジニーシの本でも、 本書『ベンガル夜想曲』でもその一端を知ることができる。 とても美しい詩である。 それが歌われるところをイメージするだけで、 ぼくのなかの歌が息を吹き返してくるようなそんな気持ちになる。 バウルはどんな儀式にも従わない。 彼らはどんな技術も持っていない。 彼らはどんな慣習ももっていない。 だから、似通ったバウルは二人と見つけ出せない。 彼らは<個>たちだ。 その反逆が、彼らをして真正な個になるよう導いてゆく。 ・・・ バウルにはどんな組織もない。 だから、それぞれのバウルが個なのだ。 これは『バウルの愛の歌』の比較的最初にある言葉だが、 こんなバウルになりたくないと誰が思うだろう。 ラジニーシは、我ー汝を落とせというが、 そのことではじめておそらくは<個>が可能になるのだろう。 バウル・・・・。 ぼくのなかでバウルが歌い出し、踊り出す。 それと矛盾するかのように、 ぼくのなかのバウルは口を封じられていることがあまりに多い。 しかし、バウルを知ったということは、 バウルでないことはもはやできないということだともいえる。 ぼくのなかのバウルの声よ、永遠に。 |