風のブックマーク2004-2005
「音楽」編

 

高橋悠治『音の静寂 静寂の音』


2005.2.17.

□高橋悠治『音の静寂 静寂の音』
 (平凡社/2004.11.15発行)
 
高橋悠治を最初に知ったのはいつの頃だったろう。
振り返ってみれば、伝説のバンド「水牛楽団」だったように思う。
手元には、本本堂からでていた「水牛楽団・高い塔の歌」のカセットテープが 
いまもある。
 
調べてみると、水牛楽団が活動していたのは、1978〜1985。
その活動のななかで5本のカセットテープ(「水牛楽団」「ポーランドの禁じ 
られた歌」
「モンコン+水牛楽団」「フジムラ・ストア」、本本堂「水牛楽団・高い塔の 
歌」)がつくられ
そのななから選曲・再編集されたものがCDにもなっているらしい。
水牛楽団についてのHPもあり、
http://www.ne.jp/asahi/suigyu/suigyu21/index.html
そのなかに高橋悠治のコーナーもあって、充実している。
http://www.ne.jp/asahi/kerbau/kerbau21/kerbau(j)/yujij.html
 
高橋悠治は、作曲家でもあり、ピアニストとしても有名であるが、
さまざまな音楽論などの著作もある。
とはいえ、これまでそんなに集中して読んだことはなく、
音楽もそんなに聴いたことはなかったことに気づいた。
おそらくぼくにもそれだけの準備がないまま
数十年が過ぎたということなのだろう。
 
『音の静寂 静寂の音』は、上記のHP、高橋悠治のコーナーから
ダウンロードされ編集されたものだが、
思った以上に読み応えがあり、さまざまな発見に満ちている。
というか、「完成品」の音楽という発想が希薄で、
音楽というプロセスそのものへ肉薄しようとすることばを
そのプロセスのうちに読み進めることのできる喜びがある。
 
今ようやく高橋悠治のことばが、ぼくのなかに流れ込んできて
うれしい時間を過ごす喜びがあるが、
やはりそのピアノ演奏もきいてみたいと思い、
以前録音されたバッハの「フーガの技法」を聴いてみたところである。
(つい最近、同じくバッハの「ゴルトベルク変奏曲|も録音・発売されたばかり)
 
さて、音楽について考えるということは、
ぼくにとってとても特別な時間を過ごすということでもある。
音楽を聴くこと。
音楽について書かれた言葉を読むこと。
そして、ぼく自身も音楽について考え、
ときにこうして音楽に関係した言葉を書いてみること。
 
音楽は、時間のなかでしか表現されない。
本来はおそらく時間を超えたところから
その響きの理念のようなものがあるのかもしれないが、
この地上においては、瞬間においては音楽は成立しない。
絵画のような仕方で見ることはできないのだ。
しかも、その時間の流れ方を早回ししたり遅くしたりしたのでは、
その聴くということそのものが異なったものになってしまう。
それが音楽体験を特別のものにしているといえるのかもしれない。
 
聴いている今のプロセスそのものの体験が音楽であって、
音は否応なく今をのがれ去っていく。
そんなプロセスのまとまりを自分のなかで響かせながら
その音楽の全体の中で音楽というプロセスが成立していくのである。
しかしそのプロセスはある種の幾何学的な変移系のようなものとしても
体験的に浮上してくるものでもあるのだ。
 
そしてなぜ音楽をききたいと思うのか。
また思わない人はなぜそうなのか。
そのこともとても興味深い。
 
そういうさまざまな音楽をめぐることを考えたりするにあたっても、
高橋悠治の現代進行形の言葉というのは、とても刺激的である。
そして、その言葉がネット上の進行形としてあることも、その姿勢としてうれしい。
 
本書の「あとがき」のなかにつぎのようにあるのを最後に紹介しておくことにしたい。
 
	「音楽の反方法論序説」を書いたあとは
	消費文化にまきこまれ、すぐに返品断裁されるような
	紙の本を出すのややめようと思った
	たのまれてあちこちに書く文章をあつめて
	インターネットに上げておく
	あるいは ネット上に再開した水牛のサイトに書く
	楽譜もおなじように公開する
	こうすれば いつでもダウンロードしてよむことができ
	コピーし 引用し 転送し
	音楽を演奏することができるだろう
	フリーウェアとしての作品は
	そのサイトがつづくかぎり そこにある
	ちいさいものが ちいさいままで ひろいつながりをもつ
 
	もうひとつの利点は
	書かれたものが 未完の状態でありうること
	まちがいを訂正し 書き直すことが いつでもできること
	じつは だれにでもできる と言ったほうがいいが
	いまは そこまでは言わない
 
	作品は 創造プロセスのある段階の静止画像
	作品は 制度となって固定された抽象への抵抗でありつづける
	ことばも音も 創られたものであるかぎり
	発見であり 学習でありながら
	くりかえし使われることをもとめる
	口と耳で伝えられた記憶が
	文字と楽譜んい書きとめられ
	さらに録音や録画でおぎなわれても
	それをうけとる側の想像力がはたらくかぎり
	変化はとめられないどころか
	むしろ歓迎される
	生産と消費の 量の論理をこえて
	流用され 転用され 再創造される感覚質であり
	提案であり きっかけでもある
 
 

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