風のブックマーク2004-2005
「音楽」編

 

シュニトケとの対話


2005.2.5.

■アレクサンドル・イヴァイシキン『シュニトケとの対話』
 (秋元里予訳/春秋社 2002.2.29発行)
 
シュニトケの名前を知ったのはそんなに昔のことではない。
シュニトケが1998年に63歳で亡くなったとき、
ぼくにはまだその存在さえ意識の上にはなかった。
シュニトケの音楽を聴き始めたのもつい最近になってからのこと。
 
この「対話」が訳されたときにも、少し気になってはいたものの
読み始めたのは先月になってからである。
これはシュニトケについては日本ではじめての本だとあるが、
ショスタコーヴィチの後継者ともいわれるシュニトケにしては
受容されはじめたのはやっと最近になってからのことであるらしい。
 
ショスタコ以降の、このシュニトケやカンチェリ、グバイドゥリーナといった
ロシア系の作曲家たちの音楽を聞き始めたところなのだが、
今ようやく腰をあげて聞き始めようとしているところだが、予想以上におもしろい。
そんななかで、この『シュニトケとの対話』のなかからも、
期待していたよりもはるかに豊かなものを
「聞き取る」ことができるような気がしている。
 
たとえば、次のような1982年に書かれた
「現代音楽における伝統と新機軸の問題」とい論文集のなかから
「新しいアイデアを形にするまでの道」という文章も収められている。
 
	 倍音スペクトルの奥に入り込んでいき、第32倍音以上になると、
	聴覚は無限の、だが閉じられた世界に入り込み、磁界からの出口はな
	い。他の調への転調が不可能になるばかりか、二つめの基音をとるこ
	とも不可能になる。なぜなら、一つめの基音をとらえると、その基音
	の倍音に聞き入ってしまうので、聴覚はもう他の音を思い浮かべるこ
	とができなくなってしまうからである。聴覚は初めの基音とその倍音
	の小宇宙に満足し、このようにして、二つめの基音は一つめから見れ
	ば、間違いになってしまうのである。
	 おそらくあらゆる音楽は、初めからある自然の構想、つまり基音と
	いう点からすれば、「間違い」ということになるだろう。作曲家が理
	想的な構想を思い描いても、その構想を音という言語に訳さなければ
	ならないので、作曲ということにおいては、常に同じような「間違い」
	が起こっていることになる。この構想の「平均律の」部分だけが聴衆
	の耳に達することになるのだ。
	 しかしこの「間違い」の不可避性が、同時に音楽の存続を可能にし
	ているのである。まだ形になっていない「原音楽」を、是が非でも、
	自分の頭の中で聞こえている通りに、そのままの形で表したいと、ど
	の作曲家も必死である。このことが作曲家を新しい技法の探求へと突
	き動かす。なぜなら作曲家はその技法を使って、自分の中に響いてい
	る音楽をはっきりと聞こうとするからである。既成のものを捨て、そ
	れなしで何か新しいものを作り出そうとする試みが数限りなく行われ
	ている。(P.106-107)
 
シュニトケは「多様式主義」だといわれ、
実際さまざまな「技法」を使って作曲しているようだが、
それは「まだ形になっていない「原音楽」を、是が非でも、
自分の頭の中で聞こえている通りに、そのままの形で表したい」
ということからなのだろう。
 
ある意味では、この「原音楽」という発想は
陳腐だとみる見方もあるかもしれないが、
ぼくにとっては、ここに述べられているような
「間違い」の不可避性ゆえの「音楽の存続の可能性」というのは
とても説得力をもって響いてくる。
音楽にかぎらずすべての「原理念」とでもいるべきものがあるとして、
この地上世界においてこうして生きているということそのものが
それが「間違い」としてしか表現されえないがゆえに、
おそらく「生」が可能になっているというところもあるのではないか。
そしてそれがある意味で「創造性」の螺旋でもあることになる。
 
ところで、理性的なものと非理性的なものについて、
つまり「新しいもの」についてシュニトケはおもしろいことを語っている。
 
	僕にとっては全人生が、神によって予め定められた理性的なものと、
	絶えずほとばしり出ようとする、まるでまだ「芽生えていない」、
	全く新しい非理性的なものとの、絶え間なき相互作用なのです。と
	ころが新しいものの全てには、悪魔がしっかりと特別な注意を向け
	ています(この領域を表すものとして、便宜上、悪魔という言葉を
	使うのですが)。新しいものに常に、より多くの注意を向けている、
	暗い非理性的な領域のようなものが存在していると、僕は確信して
	います。(P.238)
 
シュニトケは、ずっとロシアで過ごしているのだが、
ロシアの血は入っていなくて、父はユダヤ人、母親がドイツ人。
はじめて話した言葉はドイツ語で、
ドイツの影響を深く受けている。
そうしたロシアでもユダヤでもドイツでもなく、
そのどれでもあるという状態が深く影響しているようである。
そして、なぜか宗教的にはロシア正教ではなく、
あえてカトリックだったりもする。
 
さて、シュニトケは人智学とも関係があるらしく、
著者のイヴァイシキンは、
「ここで一つ、いつか約束して下さった人智学のことを話してくださいませんか。
人智学の学校へ行ったそうですね……。」とシュニトケを促し、
それについてのシュニトケが語っているところがある。
それによれば、人智学関係の人たちやその実際の活動には比較的好意的なようだが、
「シュタイナーは全てを理性で片づけ、迷信と闘いながら、精神的現象の世界に、
理性的な唯物論的方法を導入しようとしているのですが、
僕にとってはこれがどうしても問題として残る」と語っている。
しかも、「さらに、僕はシュタイナーの目が好きではありません。
おそらく、一枚を除いて、どの写真でもそうです。
彼の目つきを見ると、ぞっとします。」とさえいう。
 
おそらくシュタイナーの神秘学への理解不足もあるのかもしれないが、
ひとつにはカトリック的なものとの齟齬もあるのではないかと思われる。
あとは、芸術的な部分での直感的にかみあわない部分だろうか。
 
それはともかく、シュニトケの音楽はまだぼくにとっては
未知の世界が多いので、これから一歩一歩その領域に
歩を進めながら楽しんでいけばと思っている。
ロシアの森は思いのほか、深く、
そこに眠っているものたちの声をききとるのは、
こわくもあり、また興味津々というところだろうか。
 
 

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