風のブックマーク2004
「音楽」編

 

鈴木雅明『わが魂の安息、おおバッハよ!』


2004.4.25

■鈴木雅明『わが魂の安息、おおバッハよ!』
 (音楽之友社/2440.4.30発行)
 
この鈴木雅明のバッハ論が刊行されたところで、
バッハ・コレギウム・ジャパンのバッハカンタータ全集第24集が
ちょうど発売された(BIS-CD-1351)。
このバッハカンタータ全集の第1集から発売を心待ちにしながら
聴き続けているだけに、このバッハ論はBCJのバッハ録音とともに
本書もぼくにとっては一生ものの宝物になることだろう。
 
帯の言葉を使いながら紹介すると、
本書は次のような構成になっている。
 
第1章 受難曲を中心に論じる
第2章 カンタータを中心にBCJの10余年の軌跡を追う
第3章 徹底した自筆譜・歌詞の研究/古楽器の製作等を通して
    いかにして現実の演奏に辿りついたかを解き明かす
第4章 ソリストとしてバッハの鍵盤音楽を論じる
第5章 こうして演奏活動の根底にある考え方、
    音楽家としての生き方に触れえる
本書には、自身の演奏も含め、
BCJの全ディスコグラフィ・演奏活動記録も巻末に収められていて
ぼくが個人的にそのチラシ等のお手伝いもしている
高知バッハカンタータフェラインの小原浄二さんが
BCJのソリスト(バス)として参加されていた
1993-1994の記録もあったりする。
 
さて、以前も少しふれたことがあると思うのだけれど、
バッハの受難曲の「三重構造」について
本書を読みながらあらためてふかく思いを致したところなので、
そこのところを少しご紹介してみたい。
 
        <マタイ受難曲>における最大の困難は、その構造に由来する。周知の
        ように、バッハの受難曲は<ヨハネ>も<マタイ>も三重の構造をもっ
        ている。つまり、(1)エヴァンゲリストが語り、ピラトや群衆などが
        登場する、いわば紀元1世紀の事実を語る聖書のテキストそのもの。次
        に、(2)聖書が告げる凄惨な出来事に「私」として反応する自由詞に
        よるアリアたち。これはいうなればバッハの個人的な感情が移入された
        18世紀の世界といってもよい。そして最後に、(3)会衆の賛美とし
        てのコラール。これは宗教改革の16世紀から現代にいたるまで連綿と
        続く会衆、すなわち「私たち」という視点であり、今この場に居合わせ
        る私たちすべて、といえるだろう。
        (…)
        最初に述べたこの第2の視点である「私」も、第3の視点である「私た
        ち」も、決して1世紀のできごとを傍観している自分ではない。その物
        語の真っ只中の登場人物として、叫び、嘲り、鞭打っているのだ。結局
        この三重構造は、信仰する僕たち自分の中に存在する三つの位相である
        といってもよい。だからこそ、オペラのようにそれぞれの役柄を分ける
        のではなく、むしろ重複させることによって、時空間を横断する恐るべ
        きオブジェができあがった。それが<マタイ受難曲>なのである。
        (P33-39)
 
「自分の中に存在する三つの位相」という視点、
「それぞれの役柄を分けるのではなく、
むしろ重複させることによって、時空間を横断する」という視点は
たとえばシュタイナーが「社会の未来」において
述べている視点と通底しているようにぼくには思える。
 
先日刊行されたばかりの「シュタイナーコレクション6 歴史を生きる」に
挟み込まれている「シュタイナー言葉の栞6」にも
「社会思想としての霊学」というタイトルで引用されているところ。
ぼくも何度も引用したことがあるところなのだけれど、
あらためてその一部を引用しておくことにしたい。
 
        善き人間として安住の地を得たい。
        そして、すべての人間を愛する思想を伝えたい。
        ーーそう望むことが、今大切なのではありません。
        社会過程の中に生きて、
        悪しき人類とともに、悪しきその一員となることができるように、
        自分の才能を発揮することができる、そのことが大切なのです
        悪しき存在であることが、いいことだからではなく、
        克服されるべき社会秩序が、私たち一人ひとりに、
        そのような生き方を強いているから、そのことが大切なのです。
        ーー自分はどんなに善良な存在であることか
        そんな幻想を抱いて生きようとしたり、
        指をしゃぶって綺麗にして、
        ーー他の人間などより、ずっと自分の方が清らかである、
        そう考えたりするのではなく、社会秩序のなかにあって、
        幻想に耽らず、醒めていることが、今必要なのです。
 
みずからを「三重構造」としてとらえながら受難曲をきく。
みずからを善なる人間であるというのではなく、
そうありたいと願いながらも、
同時に悪たらざるをえない自分としてもとらえながら生きること。
「十字架につけよ!」と叫ぶ群衆のひとりとしても
イエスを売ったユダとしても
「そんな人は知らない」と
夜が明けるまえに三度言ってしまうような自分としても
みずからをとらえること。
そうすることで、「幻想に耽らず、醒めていること」。
 
醒めながら、「熱」を込めてバッハを聴く。
そうしてバッハを聴くときのように生きること。
 
 

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