風のブックマーク2004
「漫画」編

 

近藤ようこ『水鏡綺譚』


2004.12.12

■近藤ようこ『水鏡綺譚』
 (青林工藝舎/2004.5.31発行)
 
この作品は、1988年に「ASUKA」誌上でスタートしたが、
第11話、1991年で中断、そして第12話が1992年に書き下ろしされ、
その後、今年になって12年を経て第13話が書き下ろされようやく完結したもの。
 
著者のあとがきにこうあるようにこの作品は当時人気がなかったらしい。
 
	 人生に必要なことはみんな、ではないにしろ65%くらいのことは漫画から
	学んだ。だから私は下手な漫画家にしかならなかったのか。それでもせっかく
	だから自分が学んだことくらいは伝えたいと思うのだ。
	 「水鏡綺譚」は自分の仕事の中で一番好きな漫画だった。私は「作家性」と
	やらで描いていると誤解されているらしいが、他の漫画家同様、好き嫌いだけ
	でやっているわけでないし、描きたいものばかりを描いてきたわけでもない。
	それが唯一、好きで描きたくて喜んで楽しくやっていたのが「水鏡綺譚」だっ
	た。自分が子どもの頃面白いと思ったことを、私なりの形で再現して伝えてい
	たつもりだった。
	 しかし人気がなくて打ち切りになり、他で描かせてくれるところを探したこ
	ともあった。あたりまえだが、そんな奇特なところはなかった。
	 12年もたって絵も変わっているし、今さら完結編を描くのはためらわれた。
	それを敢えて行ったのは、漫画に対して意欲を失いかけている自分自身を支え
	るためだった。私は昔、漫画が好きだった。それを思い出したかった。
 
好きでやるということ。
それをひとはいつのまにか忘れがちになることがある。
「好き」ということには大きな幅があって、
ときにそれは容易であるということにもなることがあるが、
やさしいーむずかしい、という対立項とは異なって、
やりたい、ということ、そしてその「やりたい」が
ある種の理念的なものの流れのなかりにあるということなのだろうと思う。
 
この作品は、どこかで静かに紹介されたあったことばを読んで、
ふと読んでみたくなって、書店でしばらく探していたときにはなくて、
先日ふいに目に飛び込んできて、あ、読むべきときがきた、と思ったものだ。
よみはじめて、す〜っとぼくのなかに空気のように水のように入ってきて、
静かに余韻を残している。
読後「あとがき」を読み、「唯一、好きで描きたくて喜んで楽しくやっていた」
ということで腑に落ちたところがある。
 
「自分が学んだことくらいは伝えたい」ということ。
それはおそらく知識のノウハウのようなところではなく、
表現しがたいなんらかのものなのだろうと思う。
それは作品の形をとっていたとしても
それはここのこういう部分だというようには説明しがたい
その作品とともにある「理念」に関連した具体化そのものなのだろう。
 
シュタイナーの『教育の方法』(アルテ/星雲社)に収められている
「本当の人間認識を土台とする教育」のなかにこういうところがある。
 
	「教育しなくてはならない」と、人々は言うでしょう。人々は、学問をした
	者が人に教えることができる、という見解を持っています。私自身が何かを
	学んだので、私はほかの人に教える資格がある、というわけです。
	 教師は自己教育をとおして、あるいはセミナーで学ぶことによって、気質
	・性格に関して内的な平静さを身に付けます。その内的な態度が、教師が学
	習によって獲得した知識の背後に存在しています。それを人々は、しばしば
	まったく見落としています。人間認識は私たちを、深く人間存在のなかへと
	導きます。
	(P42)
 
おそらくこの『水鏡綺譚』から伝わってくるものは、
近藤ようこが「学んだこと」で獲得した
なんらかの内的態度ゆえのもののある種の表出なのかもしれない。
それが読むもののなかのなにかを静かに共振させる。
 
そういう「好き」からでてくるものは、
とりわけ人を共振させる力を持ち得るのかもしれない。
人を好きになるというのも、そういう力なのだろう。
 

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