風のブックマーク2004
「漫画」編

 

いがらしみきお『ぼのぼの24』


2004.1.21

■いがらしみきお『ぼのぼの24』
 (竹書房2004.2.7発行)
 〜メディアの時代性・感覚の変化などについて〜
 
『ぼのぼの』も24巻目。
よくここまでつきあってきたものである。
やはり『ぼのぼの』特有のある種の様式美?があるからだろうか。
 
しかし、漫画をあまり読まなくなった。
もちろん買うこともきわめて稀になった。
そんななかで、今、単行本がでると買って読んでいるのは、
この『ぼのぼの』や『陰陽師』、『21世紀少年』くらいだろうか。
坂田靖子の漫画なども新しいのがでたら買うだろうけど。
あとはたまに漫画喫茶とかで『バガボンド』とかの
話題作をいくつか読むときもあるが買おうとまでは思わないし、
それほど魅力的だとも思わないものが多い。
しかし、家には今でもかつて買ったかなりの量の漫画があって
本棚のかなりの部分を占領していたりする。
 
はじめて漫画を読んだのはいつのことだっただろうかか。
記憶を辿ってみると新聞の漫画だったような気もするが、
同じ頃、少年サンデーや少年マガジンなどの週刊誌や
少年ブック、少年画報などといった付録満載の月刊誌を
読むようになっていたから、どれが最初かわからない。
どちらにせよ小学校の一年の頃だったように記憶している。
その頃には、鉄腕アトムや鉄人28号、オバケのQ太郎といった
今や古典的なものになってさえいるテレビのアニメ番組も始まっていた。
その頃は、漫画の隅から隅までくまなく一心に読んでいたし、
テレビのアニメの時間も毎週とても待ちどおしく
そのセリフのひとつひとつ、動きのひとつひとつが新鮮だった。
 
子どもの頃は、漫画は漫画であるというだけで
ほとんどの場合そこに惹きつけられる何かオーラのようなものがあった。
そんなかつて特別な存在だった漫画が
今ではとくに漫画であるというだけでは
ぼくのなかでは価値を持たなくなっている。
なぜなんだろう。
 
いくつかの理由は明かである。
ひとつにはぼくの成長プロセスの要素がある。
小さい頃にはあらゆることを全身で受容し
知覚するひとつひとつを養分のように受け入れることが多い。
しかも受容するメディアはそう多くなく、
そのなかでテレビと漫画はやはり大きな訴求力をもっていた。
だから、テレビを見なくなるのと漫画を見なくなるのとは
ぼくの場合はかなり比例している。
テレビや漫画から受容できるものが
ぼくの関心事項・好奇心から外れてきているのである。
 
そのプロセスは時代性とも深く関係している。
感覚は自分で気づかないうちに変化する。
広告を仕事にしている関係からもわかるのだけれど、
広告表現の歴史をたどってみると
自分の見聞きしてきたものだけをとってみても
かつての表現が今はかつてのような訴求力を持っていないことがわかる。
端的な表現でいえば、古くさい、ダサイのである。
もちろん、レトロやノスタルジー的な要素もあるが
それはかつてのような同時代的な訴求力ではなく、
かつてとは別の関係性における訴求表現にすぎない。
 
しかし、それとは別に、かつては
今ほど夥しいメディア表現がなかったこともあり、
現代のようなコピーのコピーが編集されてゆくような
消費のための消費のような表現が少なかったこともあるだろう。
音楽をつくるにしてもかつてのほうがずっと手間暇がかかった。
現代ではとりあえず形だけ整えられた音楽が余りに多く
しかも売るためのさまざまな戦略がそこに過剰に加わってくる。
 
どんなものも時代性から自由であることは難しいけれど
そのなかでも比較的時代を超えて受容されうるものもあり
またあっという間に消費されるだけされて消えてしまうものもある。
『ぼのぼの』がどうなっていくかはわかないが、
24巻目の今はまだ(最初の頃のような新鮮さは薄れてはいるものの)
ぼくにとっては読んでみようと思えるもののひとつではある。
ワンパターンにはワンパターンの、水戸黄門的な様式美があるのである。
これは、いしいひさいちのつくるキャラなどにもいえることである。
そうそう、いしいひさいちは、時事的なものでさえどんどん取り込みながらも
その独自の様式美ですべてを表現する天才的な漫画家である。
 
さて、漫画というメディアはこれからどうなっていくのだろうか。
すでにある程度成熟を遂げているメディアであって、
これから生まれてくるであろうあらたな表現には
どのようなものがあるのだろうか。
それだけはこれからも注目していきたいと思っている。
 
 

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