風のブックマーク2004
「歴史」編

 

関裕二『「出雲神話」の真実』


2004.7.17

■関裕二『「出雲神話」の真実』
 (PHP研究所/2004.7.29.発行)
 
著者の関裕二の日本古代史ものはわりと面白い。
アカデミックな人からみるとほとんど評価はされないだろうし、
ぼく自身、その「結論」を納得できないことも多いのだろうけど、
少なくとも、ふつう日本古代史とされているもの、
思い込まされているものを解きほぐしてくれという意味でも
ときに読んでみるのも悪くない。
 
今回久しぶりに読んでみたのは
「出雲」と「出雲神話」がメインテーマとなっていらからだ。
 
古代における「出雲」は謎につつまれている。
ほとんど神話の世界でしかなかった出雲だが、
たとえば出雲大社の巨大柱の発見や
鳥取の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡や
妻木晩田(むきばんだ)遺跡の発掘などで
その存在を無視できなくなっているように見える。
 
ぼく自身は今はそんなに遺跡とかに関心は少ないのだけれど、
日本の古代史には興味があって、
出雲や吉備の古代史についても
できればさまざまな視点を持てればと思っている。
少し前まで広島にいたので、よく島根県にでかけていたし、
岡山に来てからは吉備がすぐ近くなって、
その地の利を生かして何かわかれば思っていたりもする。
 
ただ、古代を現代の視点、つまり、
現代人の認識の枠組みで見過ぎてしまうと
どこかで何かを根本的に見失ってしまう恐れがある。
通常の歴史研究とされるものはいうまでもなく、
こういう日本古代史ものにもいえることだ。
 
たとえば日本古代史で無視できないのは「祟り」である。
政争で敗れた存在が祟る。
菅原道真がその代表的な存在だといえるだろうか。
だから神社をつくってその存在を祀る。
祀るくらいなら陥れなければとも思うのだけれど、
とにかく祀って「鎮まりたまえ」ということになる。
死んだ存在だけではなく、生き霊さえも祟ったりする。
この祟りというのは日本独特のありようだというのだけれど、
詳しいところはわからない。
日本ではどうも祟るという方法論?がかなりポピュラーである。
 
そのように日本ではそうした霊的な現象が
さまざまなところで重要視されていて
それなしでは古代史を理解することはできないのだけれど、
だからといって霊的な視点がそこにあるかといえば
こういうアカデミックではない古代史ものでも
そういう視点は少しもでてこない。
祟りなどについてさまざまに書かれてはいるのだが
それはそれとして、説明方法はきわめて現代的になってしまう。
神話についての説明も同様である。
もちろん、そういうスタンスはとれないというのは理解できるし、
中途半端にそういうことを入れればすぐに
「トンデモ本」の仲間入りになってしまう。
 
だから、読むほうとしては、ここに書かれてあることをネタとしながら、
その背景にある霊的な流れのようなものを想像していかないと面白くない。
 
本書は「出雲」が中心テーマになっているが、
そこでクローズアップされているのは、蘇我氏である。
蘇我氏、物部氏、そして藤原氏のもととなった中臣氏。
それらについてみていくのは大変興味深い。
朝鮮半島との関係も見逃せない。
藤原氏は実質的に蘇我氏、物部氏を滅ぼしたといえる。
本書はその視点で『日本書紀』を読んでいく。
「出雲」についてもその視点から見ていく。
 
そうした視点を自分のなかに仕込んでおくと
さまざまに日本古代史や神社の歴史などを見ていくときに
今まで見えなかった何かが見えてくることもあるのかもしれない。
 
 

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