■野村萬斎・土屋恵一郎編『狂言三人三様』 茂山千作の巻・野村万作の巻・野村萬斎の巻 (岩波書店/2003.9・2003.10・2003.8.発行) 結局、「人」であり、その「花」なのだろう。 「歌舞伎」は坂東玉三郎、「能」は、観世寿夫。 そして「花」をもった人が乏しくなったとき衰退することになる。 つい最近までそう関心を持っていなかった狂言に注目し始めると、 狂言には、「茂山千作」、「野村万作」、「野村萬斎」という「人」がいるこ とがわかる。 そして、その三人へのインタビュー、狂言の演目についての「三人三様」の語り、 そして「三人」についての「論」等で構成されている三巻本が本書。 どの巻もおもしろく、読んでいる時間が至福の時間となる。 とくに興味深く感じられたのが、茂山千作の巻のあとがきで、 土屋恵一郎が次のように述べているところ。 千作に話を聞く時間は、至福の時間であった。狂言の作品を説明する 時に、千作はソファーに座ったままで、瞬時にして舞台の上の人物にな った。そしてまた瞬時に素の顔になる。まことに千作千変万化、そこに いささかも滞るものがなかった。それは舞台の上でのおおらかで磊落な 感じとは異なる、運動感覚の速度があり、世界を次々と変化させて、そ の変化のうちで身体をするっと切り替えていく切れ味があった。 この感覚に似ているなと思ったのは、野村萬斎の芸の質感である。身 体をスイッチングして、世界をくるっとひっくり返してしまう、その運 動感覚である。もしかして、千作の芸の質感は、茂山家の狂言によって よりも、萬斎の芸のうちに入り込んでいるかもしれないとさえ思えた。 実際、萬斎が「素袍落」を初演した時、その酔っていく姿と声が千作の それであった。さらに、千作の芸と身体の姿は、最近の茂山七五三の舞 台にも感じ取れる。 とはいっても、確かに千作の芸は残らないかもしれない。しかし私達 は、茂山千作という唯一無比の狂言師と同時代に生きたこの幸福に、感 謝することはできるのである。 (P282-283) 茂山千作と野村萬斎の「芸の質感」が似ているというのは、言い得て妙である。 一見まったく異なっているように見えるキャラクターではあるが、 まだわずかしか、しかも映像でしかみていないぼくにも、 たしかにそう感じられるところがあるようにも思える。 野村萬斎の魅力はたしかに野村万作を継承しているだけではわからない。 そこに茂山千作の「芸」がなにがしか継承されていてはじめて成立するのかも しれない。 とはいえ、たしかに茂山千作の「芸」は、「唯一無比」なのだろう。 その人がそこに登場しただけでその場をつくりあげてしまう力。 ちょうど梅原猛作のスーパー狂言『ムツゴロウ』を観たのだけれど、 茂山千作は登場しただけで世界をつくりあげてしまうし、 茂山七五三とムツゴロウの踊りをする姿などは、 ちょっとほかではまずみられないおもしろさなのだろうと思う。 さて、やはり注目は野村萬斎である。 ちょうどタイムリーに、 ■「狂言劇場」その壱/野村万作+野村萬斎 というDVDがこの16日に発売されたところだが、 そのなかに収められている野村萬斎の「三番叟」が何度観てもすばらしい。 「少し洗練されすぎている」とか「モダンダンスのようだ」とかいう批評もあ るようだけれど、 萬斎はこう述べている。(「野村万作巻」P203) 農耕儀礼を洗練して舞踏に昇華したのがうちの「三番叟」なので、泥臭さ がないのは当たり前だということです。大地を感じさせることが必要だと 思いますが。 日本の舞踏は大地を踏みしめ、 西欧のダンスが天に向かおうとする。 そういわれたりもするのだけれど、 そういう意味で、野村萬斎の舞踏は、大地性を土台としながら、 そこに天に向かう要素を入れようとしているのかもしれない。 そこがとりわけスリリングである。 シュタイナーは、いわば実際上、西欧人向けにオイリュトミーを創始したが、 ある意味でそこに欠けているようにみえるのが、 大地を踏みしめる要素のように見える。 日本人がオイリュトミーをするときに陥りやすい錯誤というのも、 そこに関連してくるといえるのかもしれない。 そういう意味で、萬斎の「三番叟」は、 日本と西欧との美しい統合をも垣間見させてくれることになるのかもしれない。 おそらく年を経るごとにさらにその「三番叟」は変わっていくのだろうが、 その変化をこれからしっかりと観ていきたいものだと思っている。 とにかく、理屈抜きに、すごい!というのが実感である。 楽しみは尽きない。 |