風のブックマーク2004
「芸能」編

 

山本東次郎・近藤ようこ『狂言入門』


2005.3.19.

■山本東次郎・近藤ようこ
 『中・高校生のための狂言入門』
 (平凡社ライブラリー/2005.2.9.発行)
 
先日、野村萬斎も出演している狂言『唐相撲』をみて以来、
狂言への興味が増したのもあって、
ここいらで狂言についての基本的なところから知っておきたいと思い、
ちょうどこの『中・高校生のための狂言入門』がでたところなので早速読んでみた。
 
近藤ようこは、先日この「ブックマーク」でもご紹介した
漫画『水鏡奇譚』の作者でもあるが、その近藤ようこを相手に、
大蔵流狂言方の山本東次郎が狂言について語ったものが本書。
 
ますます狂言についてもっと知りたくなり、
引き続き、狂言についての基本的な解説が載っていて写真も多い
監修・解説 網本尚子『野村萬斎 What is 狂言?』(檜書店)も引き続き読み、
さらに、狂言入門ビデオ『茂山千作・千五郎の狂言のたのしみ』も見てみる。
 
ぼくにしてはめずらしく、「入門」から入ろうとしていると自分でも苦笑い。
しかし、あらためて、狂言について何も知らない自分に気づいたので、
やはりこういうときには、素朴に「それってなあに?」という疑問に
ある程度ひとつひとつある程度納得できるところを積み重ねてみないと、
肝心なところが見えなくなってしまうのではないかと思ったからだ。
 
しかし、それにもかかわらず、相変わらず、
自分勝手な憶測でいろんなことを想像してみたりしている。
これからは、もっと狂言に関する著作や映像などにも
いろいろふれてゆきたいと思っているのだけれど、
狂言が成立してきたのは、西欧でいえばルネサンスの頃で、
そうしたなかで、能にくらべて、言語的な要素の強い狂言というのは、
ある意味で、かつて芸能の源泉としてあった神事的な奉納の要素を
人間の魂の「型」の形成の役割を担ってきた要素もあるのかもしれない。
いわば、近代的な自我形成の前段階としての型である。
 
面白いことに狂言は、その名称に「狂」う「言」とある。
おそらくは近代的な自我などというものは古代的に見るならば、
ある種の「狂」以外の何者でもなく、その「狂」を受け入れることのできるような
「型」というのが芸能的な衝動として必要とされたのかもしれない。
そして、おそらくは現代においても、その役割は終わっているわけではなく、
むしろそれを現代から未来へ向かう何者かとして
とらえかしてみる必要もあるのかもしれないと思うようになった。
 
『狂言三人三様 野村萬斎の巻』(岩波書店)を今読んでいるのだが、
そこに収録されている『萬斎独言』のなかで、
野村萬斎が次のように語っているのが印象に残った。
 
	「オイディプス王」に関しては、うまくできたかどうかはともかく、
	最終的にはギリシア悲劇がよくわかったという感覚があります。狂言
	もギリシア悲劇も古典劇だからわかりえたという気がするのです。
	両方とも、近代的に状況を解釈する演劇ではなく、もっと根源的な
	高揚感のある祭りに近いもの。儀式としての演劇のあり方ですね。
 
野村萬斎は、オイディプス王やハムレットなどの演劇などにも出演し、
新しい舞台芸術への挑戦を続けているのだが、
そうしたなかでの、発言である。
 
おそらく、こうした古典芸能に盛られているものを
近代的な芸能・芸術のなかに収めようとしたならば、
芸能者・芸術家は、ある種、狂気へとシフトしてしまいかねないのかもしれない。
それが、「型」の集大成的なものを通じてそれを超えようとするところに、
「儀式としての演劇」としての「狂言」が成立しているところがあるのだろう。
そしてその意味はとても重く、かつ興味深い。
 
しかしもちろん、芸能・芸術がすべて「型」のなかに収められようとするだけならば、
それらは近代を超えていくのではなく、古代への逆戻りになってしまう。
狂気へとひた走るような部分も併せもちながら、
同時にこうした「儀式としての演劇」という要素のなかにある
ひょっとしたら現代を超えた超近代的な新たな魂の可能性を追求することで、
それらが両輪の輪のようになって、育てられていけばいいのにと
ぼくなどは勝手なことを夢想したりもしてみる。
 
ともあれ、知り始めたばかりの狂言は、ことのほか面白く、
そのひとつの端緒となったこの『狂言入門』は、
とてもすぐれた「入門書」になっているという気がしているので
ご紹介してみることにしたが、
今も現在進行形の「落語」エポックとならんで、
少なくともしばらくは「狂言」エポックも続きそうである。
 
 

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