風のブックマーク2004
「芸能」編

 

大友浩『花は志ん朝』


2005.3.17.

■大友浩『花は志ん朝』
 (ぴあ/2003.9.12.発行)
 
このところずっと落語に少しばかり入れ込んでいたが、
圓朝を除けば、伝記的なところについてはあまり知らずにいたし、
ある意味ではそういうのがよけいになってしまうこともあるものの、
やはり、志ん朝とその父親である志ん生の関係は?とか
戦後の落語の変遷のなかでの志ん朝とかには興味がでてこざるをえない。
そういう意味で、志ん朝とその落語を深く愛している著者による本書は
志ん朝と談志の関係や、落語協会の分裂、志ん朝の芸に関する論考、
もちろん志ん生との関係も含めて、愛情深く志ん朝を描いている好著である。
志ん朝の落語の録音が残された経緯などについても
そういうことがあったのかと、いろんなことが腑に落ちてきたりもした。
 
ちょうど、志ん朝の「志ん朝、父母を語る」というインタビューCDで、
戦後、満州から引き上げてきたという話などを聞いたところでもあり、
同時に、「すばる」4月号に、井上ひさしの
「円生と志ん生」という、円生と志ん生の満州体験を戯曲にしたものが
掲載されたりもしていて、少しずつではあるが、
ぼくのなかで、落語をめぐるさまざまが
少しずつ立体的な感じになっているのがなんだかうれしかったりするので、
少し前に刊行された本ではあるけれど、
ぼくのなかでのひとつの記録としてこうして記しておきたいと思う。
 
さて、本書のなかでは、志ん朝の落語の特徴について、
たとえば京須偕充『らくごコスモス』をひきあいにだしながら、
「明るい声質」「広い振幅」「通る声」「メロディ」、そして「フレージング」が
挙げられているが、とくに「フレージング」については
そういわれてみると・・・と、深くうなずけるところがあった。
 
「何気なく聞いていると、志ん朝のブレスについては全く記憶に残らないのだ。
息の長いフレーズについては印象に残るのに、それを支えているはずのブレス は残らない。
ブレスの音をはっきりとマイクに乗せた林家三平と対照的である。
ブレスは、単にフレーズとフレーズの切れ目ではなく、
次に続くフレーズを支えるものである。
換言すれば、優れたブレスは次のフレーズを含んでいるといってよい。
だから、志ん朝がブレスをするとき、次にしゃべる概要が頭の中に
イメージとして成立しているはずである。
まるで優れた管楽器奏者のようだ。」
 
この「優れた管楽器奏者のようだ」という形容がすごい。
言い得て妙というか。
 
その他、ジャズ好きの側面でも、談志との比較で面白い指摘があった。
談志はデキシーランド・ジャズが好みで、志ん朝はモダンジャズが好みという。
また、志ん朝のエピソードで、セロニアス・モンクを聞いて
「あ、これは親父じゃないか」と言ったとかという話もあるそうだ。
 
きりがないのでこのくらいにするが、面白い話がたくさんあって、
こんな本を読んでしまうと、また落語にさらに入れ込んでしまいそうだ。
 
ところで、本書の最後のほうに、落語についての少しだけ明るい話がでていた。
志ん朝の死後、ようやくそのショックを乗り越えて再生に向かっているとか。
たしかに、こうしてぼくがあらためて落語に入れ込むようになっているのも、
そうしたさまざまな「再生」のひとつの結果なのかもしれない。
 
しかし、そういういい意味での再生は、
たとえば教育に関するところとかでは見られそうもないのが悲しいところだ。
再生するためには、いちど死ななければならないのかもしれない。
とはいえ、たぶんもう死んでゾンビのようになっているのだろうから、
コワイのだけれど・・・。
しかし、せめて「愛国心を育てる教育」とかいうようなのだけはやめてほしい。
国が個人のためにあるという前提のない日本のような国で
愛国心を称揚するようになったらどうなるか、考えてみればわかるのだから。
 
やはり健全なのは、落語を楽しめるような、そんな教育なのではないだろうか。
 
 
 

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