風のブックマーク2004
「神秘学」編

 

ゲリー・ボーネル『アトランティスの叡智』


2004.12.23

■ゲリー・ボーネル『アトランティスの叡智/思考の現実化・意識の物質化』
 (徳間書店/2004.9.30発行)
 
このゲリー・ボーネルという人が高橋克彦と対談した本や
以前にだされていた本などを読んだことはあったのだけれど、
そのときには「いわゆる精神世界的なものは、もういいや」的な
感覚をもっていたときでもあったので、それ以降、ゲリー・ボーネルだけではなく
「精神世界」的な関係を遠ざけていたところがある。
基本的には今もそんなに変わらないといえば変わらないし、
この本がでたときにも装丁をみて、やれやれ、という印象しか持っていなかったが、
たまたま冒頭に書かれてある、よしもとばななの紹介文を読んで
久しぶりにこの手のものでも読んでみるか、と読み始めて少し印象が変わった。
 
そういえば、よしもとばななも最近あまり読んでなかったりする。
読めばそれなりに読めてしまうのだけれど、
ある種の疲れを感じてしまうからだ。
それは先にいったような「精神世界」的なものへのうんざり感とちょっと似ている。
 
そのよしもとばななの紹介文の最初のあたりに
8年前のセッションについてこうある。
 
	私は個人的な人生においては、これまで男性性にばかり生まれてきて
	(よくわかります……)もう男性性は完成しているので、今回で「女
	性性を完成させること」が目的で生まれてきたということだった。問
	題は男性性が完成しているので、どのような男性の弱点も見えてしま
	うこと、そして仕事の面では世界各国に共通する不安定な年代の若い
	人たちにとって有益な小説を書き続けるのが目的である、ということ
	だった。
 
まあ、なんということもない内容ではあるのだけれど、
ぼくがよしもとばななの小説に、読めば読めてしまうのだけれど……
という感覚をもってしまうのがなぜか少し分かった気もしたし、
最近の「赤ちゃん」をめぐる本なんか、なぜまた、と思ったことについても、
ある部分で腑に落ちたところがある。
 
それで、久しぶりに昨年出てまだ読まないでいて、
よしもとばなな自身が「これまで書いた自分の作品の中で、いちばん好き」という
『デッドエンドの思い出』を読んでみて、
それはあいかわらずある種の少女漫画的なものではあったのだけれど、
どこかでぼくのなかに風が通ったような印象をもった。
 
……で、これはよしもとばななの本についての話ではなく、
ゲリー・ボーネルの新刊についての話なので、話を戻すと、
そういうぼく自身の風通しを少しよくしようとしてみた上で読み始めた本書は
なかなかスリリングな神秘学の本として読むことができるのがわかった。
ある意味で、シュタイナーの『神秘学概論』とともに
その第二部的な『新・神秘学概論』として読むことができるのではないか
という印象をもった。
しかも東洋的なものと西洋的なものの関係と総合、
さまざまな神秘学的な潮流をとらえなおすこともできる視点も
盛り込まれているといえる。
しかし、よしもとばななの紹介文が最初にあるからといって、
そういう少女漫画的なトーンで書かれてある本ではなく、
かなり骨のある内容になっていて決して読みやすくはないかもしれない。
とはいうものの、その内容をふまえながら、日常生活への応用にまで
ちゃんと着地可能なものにさえなっているというのが、
特筆すべき点なのではないかと思う。
 
本書の目的について、こう書かれてある。
 
	本書の目的は「創造」の中で私たちがどのような存在であるのかを
	明らかにすることです。「創造」とは、この宇宙だけでなくあらゆ
	る次元を含むすべてを意味します。
	(P27)
 
さらに、記述のなかで、その「創造」の基本的な本質の二元性について
このように説明されている。
 
	物理的、非物理的創造には、二つの明確な形体が存在します。
 
	1)非物理的形体:トライアード(三位一体)基本的第一次存在
	(Primary First State Being)。私たちはこの形体を「魂」と
	呼びます。魂は純粋な意識、純粋なエネルギー、純粋な波動とし
	て表現しています。ミクロの視点、つまり人間の視点からは魂は
	単に「意識」と言われます、
 
	2)物理的形体:ダイアード(二元的存在)基本的進化存在
	(Primary Evolutionary Being)。地球環境では私たちの複雑な
	多機能を持つ肉体は、基本的にエネルギーをベースにした物質と
	捉えられています。
 
	トライアードと呼ばれるすべての第一次存在(魂)は、創造された
	瞬間から全体であり、完成された存在です。より高次元の存在へは
	進化はしません。進化する存在であるすべてのダイアードは、始ま
	りの瞬間(創造主)の最初のビジョンの可能性を達成するべく他の
	ダイアードと結合します。
	(P91-92)
 
この視点は驚くほどのものではないとしても、
そのトライアードとダイアードの関係を見ていくだけでも、
読みながらずいぶんいろいろなことが腑に落ちるようになった。
ごくごく単純にいって、なぜぼくはこの肉体を持っているのか、
もっていなかればならないのか、ということや
自我と肉体性の関係などなど、
かなりすっきりとしてくるのではないかと思う。
 
それでしばらくは、この本は繰り返し読み返していくことになるだろうが、
それにしても、キンキラした装丁とタイトルまわりを
もう少しシックにしたほうが、妙な潜入見をもたれずにすむのでないか
とか思ってしまう。
しかしこの本は徳間書店のちょっといかがわしげな
「超知ライブラリー」として刊行されている。
そのシリーズのなかであることそのものがミスなのかもしれないが、
そういういかがわしさの向こう側にある「叡智」という位置づけも
また必要なスタンスなのかもしれない。
 
しかしあらためて思うのは、シュタイナーの微妙な位置づけである。
こういう「超知ライブラリー」的なもののなかにも収めることができるし、
同時に教育図書のなかにも位置づけることができるというは、
そのことそのものが総合的なあり方を表しているといえるのだろう。
もちろんその受容における振幅のあまりの大きさというあたりが、
シュタイナーへのアンビバレントな受容にもつながっているのだといえる。
シュタイナーを読まないシュタイナー受容、シュタイナー教育受容という
不思議な不思議な現象もそのひとつなのだろう。
 
 

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