風のブックマーク2004
「思想」編

 

「思想」編■大塚英志『「おたく」の精神史』


2004.2.22

■大塚英志『「おたく」の精神史/1980年代論』
 (講談社現代新書1703/2004.2.20発行)
 
大塚英志はなぜこんなに精力的であり続けられるのだろう。
本書は「「現在」を見据える」ために書かれたという。
 
        80年代の全てを「おたく」の語に集約しうるなどとは
        考えないが、しかし80年代の「おたく」文化を検証す
        ることで見えてくる「現在」があり、それはアニメやコ
        ミックの現在ではなく、新世紀の日本社会の「現在」で
        ある、とぼくは感じる。
 
大塚英志にとっては、「世紀末」さえ終わっていない。
『リヴァイアサン』(講談社)という2002年に刊行された
大塚英志の世紀末小説があるが、これは
「終わりそこねた世紀末について書いた小説」。
「終わってないじゃん、世紀末」というのである。
だから、「世紀末が忘れられるのを待って」刊行したのだという。
 
その大塚英志にとって、1980年代というのは特別な時代で、
その「おたく」文化をを再検証することで、
「現在」を見ようとしている。
そこに大塚英志の驚くほどのパワーが注ぎ込まれていて
ぼくにとっては今注目すべき人のなかの一人となっている。
 
ぼくにとっては80年代のアニメやコミックをはじめとした
「おたく」文化はそんなに近しいものとはいいがたいのだけれど、
そこで「検証」されようとしているものは、
たしかに「現在」を見ていくために不可欠なところがある。
最初は軽く流し読みしようと思っていたのだけれど、
その時代、自分がいったい何を考え、何を感じ、
何をしようとしていたのかをふりかえりながら読んでいくうちに、
ぼくにとっての80年代をもなんらかのかたちで
「検証」していく必要があるのかもしれないと思うようになった。
 
本書のなかで少しどきりとしたところがあった。
 
        岡田有希子が少女まんがのようにしか語れなかったとしても、
        ただちにそれは、彼女の内面そのものが自動化した少女まんが
        的な語りの枠内におさまるほどに貧しかったということにはな
        らない。彼女の内面と彼女が語りうる言葉の間には相応のギャ
        ップがあり、その言語化できない部分が死への衝動に結びつい
        た、と考えるのが自然だ。彼女が少女まんがのような内面しか
        もたなければ、その仮想化した内面の枠内を生きることで何の
        問題も生じなかったはずである。
        (P131-132)
 
岡田有希子の自殺やそれにまつわることどもにはとくに関心はない。
そもそも岡田有希子というタレントについてはいまだによく知らない。
どきりとしたのは、その「内面」と「語りうる言葉の間」の
「ギャップ」ということだ。
 
現代では人はそのときどきに流行しているような
表現をなんらかのかたちで模倣することで
自分の「内面」を表現しようとすることが多いように思われる。
なぜ人がマスコミ・ネタに過剰に関心をもち、
その影響を受けるのかといえば、
それを自分の模倣すべき表現の受け皿のようにしているからではないか。
そしてそこで自分の「言葉」を見つけようとするのだけれど
実際のところそううまく「言葉」が見つけられるわけではない。
とはいえ、そのギャップがそんなに大きくない場合には
自分で自分に騙り(語り)ながら誤魔化せるのだが、
それがある限界を超えてしまうこともある。
そのときにどうするのか、ということなのである。
 
そういえば、ぼくはほとんど80年代の最初の頃に書いた
卒論の最初に「人は騙らずに生きてはいけない」という
谷川俊太郎の言葉を引用したりもしていたのだけれど、
おそらくそのときにも、そのギャップについて
ぼくなりの意識があったのだろうと今ではよくわかる。
そして、ぼくがほとんど20代を送ることになる80年代には
ぼくにはほとんど自分の「表現」とは無縁に過ごした。
広告を仕事としてはいたので、広告表現には関わっていたが
あくまでもそれはほとんど類型化した表現を超えるものではなかった。
 
今からふりかえってみても、自分が80年代に
いったいどうしていたのか、あまり記憶に甦ってこない。
ある意味ではぼくにとっては暗黒の中世のような時代なのである。
そしてそうした時代の最後にシュタイナーと出会うことになる。
そして90年代を少し過ぎた頃にパソコン通信をはじめ、
さらにインターネットでこうして、稚拙にせよ、
なんらかの「表現」を試みている。
 
パソコン通信を始めた頃、よくそうした自分の書く文章について
それを「作文のお稽古」なのだということを言っていた。
たしかにその「お稽古」というのが実感であって、
自分にとっての中世のようだった時代に
おそらく少しずつ植えられていたいろんなものを
少しずつ引き出していこうとしていたのだろう。
ひょっとしたらそれは今でもそうかもしれない。
 
「現在」には自分の過去のすべてがあり、
そしてこれからのすべての可能性の種もある。
そうであるならば、その「現在」をギャップに満ちたものではなく、
少しでもなんらかの「言葉」を見つけることができれば
ひょっとしたらそれを新たな「種」にすることができるのかもしれない。
 
ほんとうに、ぼくは80年代に
いったい何をしていたのだろう。
中世の森のような20代に。
そのひとつのガイドとして本書を読んでいるところである。
 
 

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