風のブックマーク2004
「思想」編

 

池田晶子『新・考えるヒント』


2004.2.17

■池田晶子『新・考えるヒント』
 (講談社/2004.2.10.発行)
 
いうまでもなく『考えるヒント』というのは小林秀雄の著書名。
この『考えるヒント』の文庫(文春文庫)が出たのがぼくの高校の頃で、
なぜかそれを新刊として買い求めた記憶があるが、
そのときにはとくにそれに感銘を受けることはなかった。
 
その後も小林秀雄をまるで読まないわけでもなかったが
比較的すっと入ってくるようになったのは比較的最近のことである。
おそらく小林秀雄という名前にある種の壁を感じていたのかもしれない。
その壁をつくる必要を最近はあまり感じなくなったということか。
 
なぜか昨年暮れだったろうか、いつのまにか手元になくなっていた
この『考えるヒント』(文春文庫)を買い求めた。
少しの懐かしさもあったのだが、やはりこれも偶然という必然なのだろう。
その『考えるヒント』読み進めてみると現代に失われかけているとしか思えないような
「精神」をそこからは感じ取ることができる。
「霊」どころか、「精神」さえもが、
今ではうさん臭がられるようになっているように。
 
この池田晶子の『新・考えるヒント』は、
その書名からもわかるように小林秀雄という精神との
ある意味、共著のような感じさえ受けてしまう。
『考えるヒント』からの引用がところどころで
池田晶子の地の文章に自然に、かつ凛と、埋め込まれている。
この違和感のなさは驚くべきだろう。
 
この著書で池田晶子は、これまでの著書と
とくに変わったことを述べているわけではなく、
どの著書を読んでも、ある意味、金太郎飴である。
そしてこの著書がとくに難解だとかいうわけでもない。
しかし、「あとがき」に少しびっくりするようなことが書かれてあった。
 
この本に収められている冒頭の文章と第一章は
あるオピニオン誌に連載するつもりで書いたところ
「難しい」ということで流れてしまったというのである。
この文章のどこが「難しい」のかわからないのだが、
おそらくここに書かれていることを容れるだけの
精神の器が今ではほとんど失われてしまっている、
ということなのかもしれない。
 
「難しい」というのは、複雑であるとか難解であるということではなく、
それを認知さえしがたい、というか認知する価値をそこに認めない、
というほどの状態であるということなのだろう。
だからそこに美しい鳥が羽ばたき、きらめく結晶が輝いていても、
それに関心がなければ、それは存在しないにも等しいのである。
 
「難しい」ということで流れただろう
本書の「はじめに」の最後に書かれてある文章を引いておこう。
このどこが「難しい」のか、少しだけかいま見えるかもしれない。
 
         なるほど、われわれの時代はよく乱れているけれども、アテナイの
        末期や小林の頃よりもとくに乱れているわけではない。乱れているの
        は、世が乱れていると世を責めるその人の自己だ。内省することのな
        い自己が乱れて寄る辺を失うのは、今に始まったことではない。だか
        らこそ、内省する人の言葉は、どんな世でも、われわれの中で石のよ
        うに動かないのである。これは、本当に素晴らしいことではないか。
 
さて、ついでに本書の第4章の「良心」から、
シュタイナーの『自由の哲学』とも関連していると思われるところが
これもまた池田晶子の金太郎飴のような表現としてあったので、
そこも引いておくことにしたい。
これはあたりまえのことなのだけれど、
これがあたりまえではないものとされてしまうのが
恐るべきことだとあらためて痛感させられるところである。
 
         倫理すなわち行為の規範を、自身の外に求める、あるいは外にある
        ものだと思うのは、人間に非常に根強い一種の癖のようなものだろう
        と私は思っている。われわれは社会を形成している。これは事実であ
        る。しかし社会とは、個人の集合体に付けられた名称以上のものでは
        ない。これも事実である。社会などという得体の知れないものが、何
        か個人の意志を超えたところに存在し、個人を規定するものとしてあ
        るかのように錯覚するところに、行為の規範を外に求めるという間違
        いの最初がある。なるほど法律は、個人の自由を規制するものではあ
        るが、その法律に従うか従わないかは完全に個人の自由である。これ
        はあまりに自明のことであるが、その自明さに気づかないふりをする
        のは、自らその自由を望まないからだという以外の理由は考えられな
        い。行為の規範は外にあるとしておく方が、自由のリスクを負わなく
        てすむという計算である。むろんそれが計算であるとは自覚されない。
        だからこそそれは、考え方の癖として強力に定着されることが可能と
        なる。人は、自身の内的な規範によって自由に行為することなど、実
        は望んではいないということだ。(P57-58)
        
『自由の哲学』を書いたシュタイナーが関連している人智学協会にして、
シュタイナーがその名称を毎日でも変えたいとしたにもかかわらず、
その名称の権威をふりかざすようになる有り様である。
別にアントロポゾフィーという名称でなくてもかまわないのだと思うのだけれど。
そういえば、人智学関係の集団には高次存在が宿るとメールを送ってきた
ある集団の世話をされている方もいたけれど、
そういう方にとって「自由の哲学」はいったい何なのだろう。
おそらくそうした人たちにとってこそ、
この『新・考えるヒント』は、「難しい」という理由で
読めなくなってしまうような本なのかもしれない。
 
 

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