風のブックマーク2004-2005
「思想」編

 

近代浪漫派文庫37/岡潔・胡蘭成


2005.2.15.

□近代浪漫派文庫37/岡潔・胡蘭成
 (新学社/2004.11 .12.発行)
 
新学社近代浪漫派文庫全42冊の刊行を知ったのは、
河井寛次郎の随筆が収められている巻があったことからで、
他では読みにくいような方の文章が収められているものも多く、
この巻には、岡潔と胡蘭成の文章が収められている。
 
数学者・岡潔については、
これまで小林秀雄との対談「人間の建設」を読んだくらいだろうか。
伝記的な部分についてもこれをきっかけにしてはじめて知ることができた。
胡蘭成についてはこれまでまったく知らなかったのだが、
中国に生まれ、その後1950年に日本に政治亡命したジャーナリスト。
岡潔とは保田与重郎を介して交流をもった方のようである。
 
岡潔は、本巻に収められている文章では、
自身の伝記的な話をベースにしながら、その体験から、
主に教育のことをかなり熱く語っていて、
シュタイナーが教育について示唆していることとも
通じているところがかなりあるのを興味深く読んだ。
 
数学について次のように述べているところでも、
数学は好きだったが計算が嫌いだったぼくなどには
とても納得のいくものだったりした。
 
	本当の数学は黒板に書かれた文字を普通の目玉で見てやるのではなく、
	自分の心の中にあるものを心の目でみてやるのである。・・・この方法
	でちゃんとやれば、白昼の光の中に住むことができる。自分で自分がわ
	かるということなのだから、計算などというまだるっこしいことをしな
	くても、直観(感官、特に資格のそれを通さないもの、即ち純粋直観)
	でわかるのである。
	ただ、筆の利点はあとで間違いをみつけられることにあり、歩いたあと
	がそのまま残っている筆算の方が、その点で珠算よりはすぐれている。
	心の中のものを心の目で見ていると、不注意による間違い、いわゆるケ
	アレス・ミステイクがわからない。それを調べるには筆や役立つといえ
	る。私の論文などいつもケアレス・ミステイクが多いのだが別に訂正も
	していない。どうせわかる人にはわかり、わからない人にはわからない
	からです。不思議にケアレス・ミステイクが多いことと、本質的なミス
	テイクがないこととは対応し合うものらしく、これに反して、ケアレス・
	ミステイクの全くない論文でも、一つでもミステイクがあれば、それは
	致命的なものであって、全体が思い違いだといえる場合が実際にはある。
	ケアレス・ミステイクを指摘するのはそれを気にさえすればできること
	である。だが論理や、計算だけのお先まっくらな目では、起こったこと
	を批判できるだけであって、未知に向かって見ることはできないのであ
	って、だからよくミステイクを(多くは致命的な)起こすのです。
	数学教育の目的は決して計算や論理にあるのではない。かたく閉じた心
	の窓を力強く押し開いて清涼の気がよく入るようにするにあるのだ。数
	学教育は大自然の純粋直観が人の子の情緒の中心によく射すかどうかに
	深くかかわっているのであって、計算が早い、遅いなどというのは問題
	ではない。私たちは計算の機械を作っているのではないのである。数学
	は計算器を作っておいたのだから、もう数学でもない計算を教えないで
	もよいことにしてほしい。又、論理は手段であって、人ではないことを
	併せて教えてほしい。
	(P119-120)
 
ここで「心の窓を力強く押し開いて清涼の気がよく入るようにする」というのは、
「自分の心の中にあるものを心の目でみてやる」ということでもあって、
言葉をかえていえば、対象にとらわれない、対象のない思考の自由さを
体験しえるようにするということなのだろう。
計算ばかりやらせてその正確さだけを云々したところで
数学の本質とは何の関係もないことである。
むしろ、そこにとらわれることで、そのなかに閉じこめられてしまって、
肝心なものが見えなくなってしまいかねない。
 
これについては、さらに岡潔は次のように日本人の傾向性を批判しているが、
このことは、シュタイナーも指摘しているような日本人特有の模倣的傾向とも
とても似た観点であるといえて、おもしろい。
 
	独創とコピーとの区別など知りもしないだけでなく、コピーのほうを信
	用して「私はこう思う」などというのは信用しない。実質よりも形式や
	観念を大切にする。
	・・・
	文化だって、外国で獲得したものをコピーするのがすなわち文化だと思
	っている。だからコピーをふやすのが文化を高めることだというわけで、
	大学ばかりがやたらにふえることになる。
	(P132-133)
 
 
それから、次のような視点も、
「自己教育」の背景にあるものを考えたときに大変示唆的である。
 
	敬虔ということで気になるのは、最近「人づくり」という言葉があるこ
	とである。人の子を育てるのは大自然なのであって、人はその手助けを
	するにすぎない。「人づくり」などというのは思い上がりもはなはだし
	いと思う。
	(P76)
 
しかし、シュタイナーと岡潔の教育における観点で根本的に異なっているのは、
岡潔が男女の別などをかなり強調しているところで、
(女性は思考できない、とかいうことさえ言っている)
そうでなければ、ある種の秩序を維持できないと考えていたのかもしれない。
この点は、日本においてはかなり根強く、
たとえ今日本における数多くの女性が混乱し、
同時に男性もまた混乱しているのだとしても、
そういう性別の違いが、それぞれの個性の違いによって出ているのでない限り、
やはり、過去向きの秩序指向以外の何者でもないのではないだろうか。
 
おもしろいのだけれど、シュタイナーが認めていたであろう理解者には
マリー・シュタイナーやイタ・ヴェークマンのような女性が多い。
むしろ、シュタイナーが労働者講義の聴講も認めなかった理事たちのような
男性たちのほうに、あたまコチコチで融通の効かない権威主義が多くいたわけである。
重要なのは、たとえば魂における女性性と男性性の「結婚」を
それぞれにおいて達成していく方向性なのであって、
実際の性別で云々する方向はやはり退化以外の何者でもないだろうと思う。
 
ともあれ、岡潔の示唆している教育への視点(というかまさに警鐘)は、
今非常に重要なものをたくさんふくんでいる。
もっと読まれてしかるべき人だろう。
しかし、今岡潔の文章を読める機会はとても少なく、手に入る書籍も少ない。
その意味でも、本文庫の意義は大きいといえる、のだが、
あまりにマイナーな文庫だというのが残念である。
 

 ■風の本棚メニューに戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る