風のブックマーク2004-2005
「思想」編

 

田村都志夫『エンデを旅する』


2005.1.20

■田村都志夫『エンデを旅する/希望としての言葉の宇宙』
 (岩波書店/2004.12.21.発行)
 
エンデはドイツロマン派の系譜にいる。
英米におけるいわゆる「ファンタジー」とは少し別の流れである。
そのことをエンデ自身が語っている。
そしてとくにノヴァーリスが「わたしには大切な詩人なのです」としている。
このことはとても重要なことだ。
エンデにとってのシュタイナーの重要性も
おそらくはその点に関連してとらえたほうがいいといえるかもしれない。
 
本書では、そうしたエンデの背景にあるものが
ぼくの知る限りではいままででもっともわかりやすく描かれている。
たとえば「エンデと精神世界」や「カバラと言葉」という章もあるように。
おそらく今までエンデについて語られることの少なかった部分について、
むしろ中心的に描かれているのは本書の注目すべき点ではないかと思われる。
 
著者は、エンデに関して、
『ものがたりの余白』『エンデのメモ箱』『だれでもない庭』と
訳書・編訳などに関わっているが、まとまった著作としては初めてのもの。
実際に晩年のエンデに接することができ、
その記録などを背景に可能になったのではないかと思う。
 
とはいえ、おそらく著者は神秘学などについて
あまり関心がないのだろうか、
とくに「カバラと言葉」の章などでとりあげられているテーマについては、
なぜか井筒俊彦さんの著作などを引き合いにだして
ごまかしているだけのように見えたりもする。
それとも、井筒俊彦さんの名前のもとに「カバラ」について言挙げすることで
なんらかの批判的な部分をかわそうとしたのかもしれないが、
ちょっとまとまりに欠けるような印象もあったりする。
 
その意味では、本書は、テーマの拾い出しのような位置で
読まれるのがいいのかもしれないし、
その点では現時点では最重要な、エンデへの「旅」だといえるかもしれない。
 
 
■菅原教夫『ボイスから始まる』(2005.1.20)
 
■菅原教夫『ボイスから始まる』
 (五柳書院/2004.11.19発行)
 
シュタイナーの関連でもそうだけれど、
ヨーゼフ・ボイスについて語られることは
今の日本ではきわめてまれになっているのではないかと思われる。
まさに忘れられようとしている過去の芸術家の位置づけになりかねない位置にいる。
 
ぼくにとっても、全共闘世代の後に生まれた関係もあり、
シュタイナーに関連してボイスの名前を知ることになったときには、
すでにボイスは過ぎ去っていたという感があり、
ボイスについてまとまったかたちで調べる機会はまれだった。
 
	ボイス関連の図書が日本の書店から消えつつある今日、本書のささやかな
	試みもボイス復権のために幾分の意味は持つだろう。
	(本書「あとがき」より)
 
その意味では、ぼくにとっても、本書が
ボイスとその活動について知る貴重な資料となったといえるし、
ぼくにとっては「復権」というよりも、
新しいテーマの喚起という意味を持ち得るのではないかと感じた。
 
著者は新聞社の文化部に所属しているということだが、
最初に本書を書店で見つけたときに思ったのは、
なぜボイスについてこのような著書を書こうと思ったのだろうか、ということだった。
 
著者はある「個人的動機」から、
「ボイスの巨大な営みと格闘」することになる。
その格闘というのは、「人間を変えていくこと、
人間性の刷新を唱え続けたボイスの理念を自ら実践していく試み」だったという。
 
ボイスは、社会問題や政治を、みずからのパフォーマンスをふくめてアートにした。
そしてその作品を見て解釈する者そのものの精神を変革する可能性を与える。
 
社会を変えるためには、その構成要素である個々人を変えなければならない。
そのためには、その個々人の感じ方、リアリティそのものを変え、
人間性を高めていく必要がある。
人間性を高めるとは、人間が自由になることを意味し、
人間が芸術家にならなければいい社会はできないというシラーの思想に連なり、
ボイスは「すべての人間は芸術家である」とする。
もちろん芸術家というのは職業としての芸術家というのではなく、
社会のさまざまな分野において創造性を発揮する存在をいう。
 
	内なる人間の分裂が癒され、人間の本性が十分に展開されてみずから
	芸術家となり、理性の政治的創造にその現実性を保証するに至るまで
	は、そのような国家改革の試みは時期に適せず、それに基礎を置く一
	切の望みも幻想的と言わざるをえません。
	(シラー「人間の美的教育について」)
 
逆にいえば、現代人は、自由を失い、
芸術家であることを放棄しようとしているといえる。
現代日本をみるだけでも、国家は人を管理することで諸問題を解決しようとし、
決して個々人を「芸術家」にしようとはしていないどころか、
学力としてしか教育をとらえていないような貧しい発想しかもっていない。
学力というのはいわゆる点数化できる知識ということになるだろうか。
 
ところで、ちょうどエンデに関する著作
田村都志夫『エンデを旅する』をご紹介したところなので、
ボイスとエンデというテーマもここでおさえておきたい。
 
ボイスとエンデに関しては、『芸術と政治をめぐる対話』(岩波書店)という
1985年2月8日から10日にかけての両者の対談が邦訳されている。
後にエンデ全集のなかにも収録されていて、エンデに関していえば、
もっともシュタイナーに関連した内容がでているものになっていたりするし、
ボイスとエンデにおいてシュタイナーのいう「自由」が
どのように受け取られているかどの違いを見る意味でもおもしろい。
おそらく「芸術」そのものに対するスタンスが両者において
微妙な差異をもっているというところもあるように感じる。
 
さて、ボイスはいったい何をしようとしたのか。
なにと格闘したのか。
そしてそれがシュタイナーやエンデとどう関係しているのか。
そのことを見るためにも、『ボイスから始まる』は
とてもいいガイドになる一冊であるといえるのではないだろうか。
 
 

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