風のブックマーク2004
「思想」編

 

八木雄二『「ただ一人」生きる思想


2004.11.21

■八木雄二『「ただ一人」生きる思想ーーヨーロッパ思想の源流から』
 (ちくま新書503/2004.11.10発行)
 
「個であること」についての貴重な示唆のある一冊。
 
「個であること」というのは、わかりにくい。
だれでも一人だけで生きているわけではない。
いろんな意味で人はさまざまな依存関係のなかで生きている。
しかし、そうした依存関係にもかかわらず、
人は「ただ一人」、「個」として生きることで、
そのかけがえのなさを生きることができるのだといえる。
では、それはいったいどういうことなのだろうか。
 
「個」を成立させたのは、キリスト教であるといわれる。
ずっと以前ご紹介したことのある
坂口ふみ『<個>の誕生/キリスト教理をつくった人びと』(岩波書店/1996.3.8)
http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/book/book10.html
のなかでも、それが示唆されている。
それはいったいどういうことなのだろうか。
 
本書では、ヨーロッパ個人主義の源流を、古代ギリシア、キリスト教、
そして中世スコラ哲学において見ながら、
とくにスコトゥスの「ペルソナ論」のなかの
「自律する個」についてのきわめて重要な示唆を紹介してくれている。
しかもそれを現代日本にいる私たちにとっても
どうしても避けて通ることのできない問題として
問いかけてくれているのである。
これはもちろん、シュタイナーの『自由の哲学』とも
深く関係してくる問題でもある。
 
著者も述べているように
「経済的自立は精神の自律とはまったく別ものである」。
しかも、「経済的自立」の裏面には、むしろ
さまざまな経済活動へとますます依存することになってしまう。
「これに対して精神的自律とは、自己を自己の力で律することである。
したがって依存は事実でも、その依存に対抗する意識なしには、
スコトゥスの言うペルソナ性は生まれてこない。
聖者フランシスコに見られたように、ペルソナであるためには
地位や所有に支配されない精神が必要である」。
 
なぜキリスト教なのだろうか。
ぼくはキリスト教徒でもないし、どんな宗教とも無縁だけれど、
その重要性を理解することはどうしても必要なことだとは思っている。
そのひとつがこの「自律する個」なのである。
 
	十字架という、さらし台で死んだイエスがヨーロッパに残したものとは、
	そういう思想なのである。人間イエスが歩いた道は、ときに多くの支持
	を得ようとも、一人の道だった。最期の道は、むち打たれ、十字架を背
	負わされ、石つぶてを受け、つばをはきかけられる処刑の道であった。
	聖者フランシスコが歩んだ道も、やはり一人の道だった。カトリック教
	会が認めた道であっても、かれの歩みは、当時の教会人たちの道とは、
	まったく異なる道だった。スコトゥスが、ぎりぎりの孤独を要求される
	道にこそ現れる、純粋な「顔」を学んだのも、かれらからであったろう。
	だからこそ、キリストに頼みながら、ペルソナが成立することを、スコ
	トゥスは見いだしたのである。
	ところが、スコトゥスはキリストに頼むことのない道を歩む「顔」も、
	ペルソナとして認める。もしかしたら不信仰を告白しただれかの顔が、
	かれの脳裏をよぎったのかもしれない。カトリックの司祭であったもの
	として、不信心は、かれにとって空恐ろしい言葉であったに違いない。
	神は、絶対者であり、創造者なのである。周囲のものは、ちり一つに至
	るまで神のものである。だからこそ、この世界の秩序に沿ってある教会
	は永遠的なのである。不信心は、それに敵対することである。周囲のす
	べてのものと敵対することである。どこにも心を通わすものは居ない。
	しかしそこにも、ぎりぎりの孤独があることは疑いようがない。不信心
	の者にも、その不信心ゆえに、その心は、ペルソナ、すなわち、「顔」
	をたしかに持つのである。(P188-189)
 
自由であること。
それは悪である可能性を許されているということでもある。
それが「顔」を持つということでり、
「自律する個」であるということである。
シェリングが『自由論』で、真に現実的な自由の概念を
「善と悪の能力」であると規定したのもそのことではないだろうか。
そういう意味で、「ただ一人」生きることから発しない思想には、
自由は存在しない。
ナショナリズムに自由がないのも、そういうことである。
 
ちょうど、シュタイナーの『イエスからキリストへ』を
久しぶりに読み返しているところで
この『「ただ一人」生きる思想』を見つけたのは偶然ではないだろう。
 
『イエスからキリストへ』の最初に、
意志に働きかけようとするイエズス会の危険性が
かなり強く示唆されているが、
それも「自由」という観点と深く関わっている。
スコトゥスはフランシスコ会の司祭だったようだが、
その「ペルソナ論」がイエズス会とは異なり、
フランシスコの「一人の道」が深く影響していたのだろう。
 
精神科学においても、というか精神科学においてこそ、
その「自由」、「一人の道」から出発する必要があるように思う。
それ以前に、それは現代人にとって最重要の問題の一つでもある。
 
 

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