風のブックマーク2004
「思想」編

 

中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』


2004.11.21

■中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書/2004.11.22.発行)
 
網野善彦への「長大な追悼文」。
今年の5月〜7月、「すばる」に
3回にわたって連載されたものがもとになっている。
 
すでに今年、中沢新一と赤坂憲雄による『網野善彦を継ぐ。』がでているが
本書は、その最後に、「この文章はたしかに「極私的網野論」としての、
特殊に私的な性格をもっているが、私としては、
将来網野さんの評伝などを書こうとする人があらわれたとき、
そういう人の役にも立てるようにと心がけて書いた」とあるように、
「叔父(父の妹の夫)との子どもの頃からの交歓を通じて
網野善彦を描いているとても貴重な記録になっている。
そしてその記録を通じて、網野善彦の示唆してきた重要な論点が
浮き彫りになっている。
 
本書の構成は、第1章が「『蒙古襲来』まで」、
第2章が「アジールの側に立つ歴史学」、
第3章が「天皇制との格闘」。
網野善彦が何をいわんとしていたのかが
この3つの柱で比較的わかりやすく描かれているように感じた。
あらためて感じたのは、単なる実証主義的な歴史家や
ナショナリズム的な傾向を持っている方などには
やはり網野善彦の示唆している方向性に対して
感情的な反感が喚起されやすいのだろうなということである。
 
多くの歴史家が反発せざるを得なくなるのは、
「これまで「歴史を書く」という行為の仲で無意識に前提とされてきた、
思考の制度のようなものを解体してしまおうとした」(P62)からなのだろうし、
ナショナリズム的な傾向から反発を受けるのは、
「「日本国」を抜け出ているアジール」への視点が重要視され、
そこから「列島に展開された歴史のすべてを見とおす力を獲得」(P63)
しようとする視点なのだろう。
「アジール」は「国」や「国体」といった
「権力の思考」を離脱したところへと向かうからである。
そしてそれが「宗教でもコミュニズムでもない道」へとつながっている。
 
	世界に堂々たる非人を取り戻すことによって、網野さんは人間を狭く
	歪んだ「人間」から解放するための歴史学を実現しようとしたのであ
	る。「百姓」を「農民」から解放する。人民を「常民」から解放する。
	この列島に生きてきた人間を「日本人」から解放する。そして列島人
	民の形成してきた豊かなCountry's Beingを、権力としての「天皇制」
	から解放する。こうして網野善彦のつくりあげようとした歴史学は、
	文字どおり「野生の異例者」としての猛々しさと優雅さをあわせもっ
	た、類例のない学問として生み出されたのである。(P173)
 
網野善彦と中沢新一の著作を読みながらよく思うのは、
これは精神科学への重要なプロセスのひとつではないかということである。
精神科学を知ればそういう視点はすでにいらないかというと
決してそうではなく、人智学を知るためにも、
現代においては、そうした視点を経ておく必要があるような、
現在進行型の格闘の実況中継でもあるということ。
「自由」へと向かう、その思考のダイナミズムをこそ
学んでいく必要があるのではないだろうか。
 
 

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