風のブックマーク2004
「思想」編

 

星野道夫講演集『魔法のことば』


2004.11.01

●星野道夫講演集『魔法のことば』
 (スイッチパブリッシング/2003.4.25発行)
 
星野道夫が、1989年3月にはじめて講演したときから
1996年5月12日、山形県八ヶ岳で講演したときのものまで
7年間の記録が収録されている。
そして亡くなったのが1996年8月8日。
 
まるで語り部が繰り返し同じ話を語るように語られているが、
同じ話を何度読んでも何度読んでも決して飽きることがない。
まさに「魔法のことば」だといえるのかもしれない。
何度も何度も語り部の話を聞くうちに
それが聞く者のなかで継承されていくような
そんな大切な話がぎっしりと詰まっている。
 
なぜ星野道夫がああいう形で死ぬことになったのかを
とりとめもなくずっとあれこれと考えていたのだけれど、
この最後の講演の最後のところで語られている
「スエット・ロッジ」の話を読んで、
ああそういうことだったのかもしれないと
ぼくはぼくなりに納得するものがあった。
ちなみに、スエット・ロッジというのは
ビジョン・クエストのようなある種の秘儀参入的な儀式。
 
講演の最後はこのように語られて終わる。
 
	つまり、祈るとか、ひとたびまったく違う世界に足を踏み込んでみると、
	自分だけではなく皆が旅をしている。皆がそれぞれの闇のようなものを
	自分の中に持っていて、それを乗り越えようとしている。そういう賭け
	をしているような印象を強く受けたですね。皆が……僕自身を含めて自
	分の中で克服したい、闇という言い方は相応しくないかもしれないけれ
	ど、何かを抱えている。そして考えてみると僕がアラスカに来たのもま
	さにそういうことだったような気がするんです。自分がどうして18年
	もアラスカにいたのか。その答えはきっとウィリーとそれほど変わらな
	いんじゃないか。自分の中に克服したいものがあったからなんじゃない
	のか。だから今振り返ってみると、自分はアラスカの自然に励まされて
	きたんだなと、そしてそうした旅の最中に自分がアラスカにいられて本
	当に良かったと思うんですね。スエット・ロッジで体験したあの瞬間と
	いうのは、まさに自分がアラスカに居続けたその大きな理由を体現する
	瞬間だったように僕には思えてくるんです。
	(P309)
 
おそらく人には生まれてきた理由がちゃんとあって、
それがわからないからこそ効果的な形でそれなりの意味深い生を歩み、
その生まれてきた理由をある程度満たしたところで死ぬことになる。
その死は悲劇的な場合もあるかもしれないけれど、
どんな形であれ決して無意味なものではないだろう。
 
そしてそれは、その人だけの生ではなく、
「皆」の「旅」と「伴」としての性格ももっている。
直接的な関係性だけではなく、
こうしてぼくが星野道夫の著作や講演などを読み、
写真を見ることによっても、「伴」となることができる。
この地上世界の意味というのもそこにあるのだろう。
 
そのことをぼくのなかにあらためて刻み込んでくれることになった
繰り返し語られる「時間」についての話がある。
 
	 何年か前に僕の知り合いがアラスカに来て、一緒にクジラを見る旅に
	行ったんです。ある日一頭のザトウクジラに出会ったんですが、ボート
	の前でクジラが大きく跳び上がって、大きなブリーチングをしたんです
	ね。そしてまた海中に落ちて、そのまま何もなかったように泳いでいっ
	たんですが、そういうシーンを僕らは目の前で見ることができたんです。
	その友人が帰国後日本から手紙をくれたんですが、アラスカに行って本
	当によかったという内容でした。「自分が日本にいて忙しく過ごしてい
	るときに、ふとあのクジラのことを思い出す」と書いてあったんですね。
	それはすごくよく分かるというか、いろんなものに同じように時間が流
	れているというのは、よく考えると不思議なことで、そういう気持ちを
	いつも持っていたら、それはとても豊かなことなんじゃないか。そんな
	気がします。
	 そういう意味で、僕らの周りには二つの大切な自然があるような気が
	します。一つは身近な自然です。つまり生活の中で自分の家の近くの森
	や川や草花が毎日見ることができる、そういう身近な自然が大切なんで
	すね。もう一つは、遠い自然も大切だと思うんです。つまりそこには行
	けないかもしれないけれど、そこにあるというだけでホッとできる。例
	えば、カリブーの季節移動はなかなか人が行けない場所でしか見ること
	ができないんですが、しかしそこにそういうものがあると想像できるの
	はとても豊かなことなんですね。あるいはオオカミのことを考えると、
	アラスカにはまだオオカミがたくさん残っているんですが、たとえオオ
	カミが消えてしまっても、僕らの日常生活は何も変わらないわけです。
	ところが決定的に違うのは、オオカミがいなくなったら、僕らはオオカ
	ミについて想像することができなくなってしまう。そこには大きな違い
	があるような気がします。そういう意味で、自然を大切にするというこ
	とは、時間を大切にするのと同じくらい大きな力を持っていると僕は思
	うんです。
	(P236-238)
 
なぜこの地上世界があるのか、と問いかけたとき、
とても大切なのは、「時間を共有できる」というか
「同じ時間を生きる」ことができることなのじゃないかという気がしている。
それは人間どうしがということはもちろんだけれど、
人間じゃないさまざまな存在たちについてもそれがいえる。
 
おそらくこの地上でなくては
その「同じ時間を生きる」が可能にならないんじゃないかと思う。
そのためにこのような物質世界が必要とされた。
 
もちろん「同じ時間を生きる」というのは
非常に苦しい拘束、不自由さでもあるのだけれど、
それゆえに自由の可能性もそこに開かれることになった。
そうはいえないだろうか。
 
そういう意味で、もうひとつ重要なのは
「他者」ということなのだろうと思う。
この地上世界においては、まったく異なった存在者が
物理的に同時存在できる。
それは人間どうしだとエゴも生み出すわけだけれど、
それは同時に「愛」の可能性も生み出すことになる。
「他者」が存在するからこそ「愛」が可能になるのである。
 
ほかの人の読み方、たとえば本書の最後に収録されている解説を書いている
池澤夏樹の読み方とは、少しばかりずれてくるかもしれないけれど、
ぼくは、この講演録を読みながら、そんなことをいつも思っていた。
 
そして、僕にとって、今ここに「居続けたその大きな理由を体現する」のは
いったいいつのことなのかを考えたりもしていた。
もちろんそれはただの苦しい事件になるのかもしれないのだけれど、
おそらくそのときがくれば、ぼくも死に近づくことになるのかもしれない。
そんなことを思い描いたりもした。
たぶんそれはまだまだ先のことなのだろうけれど。
 
そんなことを思い描くきっかけにもなるような
豊かな「魔法のことば」が、この講演集なのだといえるのかもしれない。
しかし「魔法のことば」は誰にでも同じように働くとはかぎらない。
その言葉は読む者のなかにあるものに働きかけるのだから。
 
 

 ■風の本棚メニューに戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る