風のブックマーク2004
「思想」編

 

大塚英志『「伝統」とは何か』


2004.10.11

風の本棚「思想」編
■大塚英志『「伝統」とは何か』
 (ちくま新書496/2004.10.10発行)
 
大塚英志は孤軍奮闘している。
大塚英志のそうした営為は、宮台信司や福田和也らとともに
現代の日本を見据えるためには欠かすことのできないものだともいえるが、
宮台信司や福田和也よりも、大塚英志のある種のピュアさはきわだっている。
そのピュアさというのは、とても複雑なピュアさで、
あえて選び取った直球のような印象がある。
 
宮台信司は決して直球を投げないし、
ピッチャーであることさえこだわらないところがある。
いきなりキャッチャーになってしまうかもしれないような。
 
福田和也はもっとも尻尾をつかみにくい妖怪のような存在であるが、
同時にきわめて無邪気に、ただ遊びたがっているだけのようなところもある。
「だから最初からぜんぶ遊びだっていってるだろう。
嘘なら嘘でもいいから、遊ばせてくれよ、っていうことがなぜわかんないのかな」
といいながら、無邪気な妖怪がとてもピュアな目をして不思議な笑いを見せる。
というような印象がある。
もちろん始末が悪いのは、本気で、遊ぼうと思っているところだ。
だからその遊びにはとても熱がこもっていて引き込まれてしまったりもする。
 
そういう意味で、宮台信司も福田和也も
決して目を離すことはできないけれど
そのことばを真に受けると馬鹿を見ることにもなる。
そういう意味では、大塚英志のことばは直球だから
テーマをまっすぐに見据えるときにはとても役に立つ。
 
今回の『「伝統」とは何か』もストレートだ。
しかも150キロ級のストレート。
だから空振りするか真芯で打ち返すかどちらかが求められる。
 
語られていることは、ごくシンプルである。
「伝統」も「ナショナリズム」も「つくられたもの」だということ。
そのことそのものはごくごくあたりまえの内容なのだし、
まともなナショナリスト?にとっても当然のことでもある。
しかし、問題なのは、そのことをあらためて自分で見いだすように実感し、
そのことに対してどう「打ち返すか」ということなのだ。
 
本書で次の述べられてきたように、ぼくにとっても、
「「伝統」も「ナショナリズム」も不要」となるようなものを持ち得るような
方向性が重要だという考えは変わらない。
 
	「伝統」も、「歴史」と同様に「つくられた」ものである。特に今日、
	ぼくたちが「伝統」と信じる習慣や思考の多くは、明治以降の近代に
	新たに出来上がったものだ。近代国家というのはそこに生きる人が、
	たとえば「自分は日本人だ」という「われわれ意識」がないと成り立
	たない。その時、「日本」という「われわれ」の帰属先が、昔からず
	っとあるように根拠付けるために「伝統」が「発見」されてしまうの
	だ。
	このような、「伝統」とは近代の中で作られたものだ、という論議は
	実は全く珍しいものではない。社会学や歴史学や、いわゆる現代思想
	系の研究者には自明の論議であるはずだ。だから本書の立場は、その
	種の論議に接している人々には何をいまさら、と聞こえるかもしれな
	い。しかし、一つの理論として「伝統」は作られたものだ、と語るこ
	とは容易だが、そのことをぼくたちが具体的に実感することは、「つ
	くる会」の教科書をめぐる騒動一つとってもけっこう困難だ。
	だから本書では、「日本」の近代において、「伝統」がいかに「作ら
	れて」いったかについて、なるべく具体的で、かつ、好奇心を持って
	読んでもらえそうな事例を示し、その過程を語ることにした。
	・・・
	それは結果として、「伝統」がいかに政治的に作られ、しかも、その
	ことは時間が経つといかに見えにくくなるかということや、「伝統」
	を作ろうとするあまりに陥る袋小路の奇妙さを実感していただくこと
	になる、とぼくは考えるからだ。
	(・・・)
	「個」を確立させ、それぞれが自分の「心意」をことばとして表出す
	る技術を持ち、それぞれの差異を踏まえて公共性を立ち上げようとす
	るかつての「公民の民俗学」と、一方では「国家」の、他方では「母」
	の代償としての「世間」の中で、すでにある秩序に合わせることで
	「正しい選挙民たれ」と説く「世間の民俗学」の差はあまりに大きい。
	 だからこそ、ぼくは「公民の民俗学」の可能性を改めて主張する。
	「群れを慕う」感情の断念から出発し、名付けられていない、定かで
	さえないが、しかし、それぞれの「私」を出発点とし、互いの差異を
	自らのことばで語り合い、それらの交渉の果てに「公共性」があるの	だと考えた、昭和初頭に束の間出現した「公民の民俗学」こそが、ぼ
	くたちが「日本」や「ナショナリズム」という、近代の中で作られた
	「伝統」に身を委ねず、それぞれが違う「私」たちと、しかし共に生
	きいるためにどうにかこうにか共存できる価値を「創る」ための唯一
	の手段であると考える。	
	「創る」のは「伝統」ではなく、「個」から出発する「公共性」であ
	る。
	その時、ぼくたちには「伝統」も「ナショナリズム」も不要となるは
	ずである。
	(大塚英志『「伝統」とは何か』ちくま新書496/2004.10.10発行 P200-205)
 
 

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