風のブックマーク2004
「思想」編

 

香山リカ『<私>の愛国心』


2004.8.11

■香山リカ『<私>の愛国心』
 (ちくま新書485/2004.8.10.発行)
 
教育基本法が改正されようとしている。
「愛国心」が盛り込まれようとしているのだ。
有事法制やら憲法改正やら、とてもコワイことになってきている。
 
「まえがき」でこんなことが書かれているが、もっともである。
 
	茶化すわけではないが、妻に「愛してるよ」と言ったこともないような
	教師が、いきなり「国を愛しましょう」と生徒に“愛”を説く、という
	のはなんとも不自然な気がする。
	(P.007)
 
重要なのは、<私>の問題なのである。
それをすりかえるようにして、「愛国心」が強制される。
自由意思としての倫理と外的道徳のすり替えは珍しくもないことだが、
自分を棚に上げたすり替えはやはり困る。
 
	個人の問題ーーここではそれを「不安」と呼んでおこうーーをうち消すた
	めに、「愛国心」といった大きくて強い概念を性急に召喚しようとする。
	この傾向は、「愛国心」だけに限らず、いまの日本社会のありとあらゆる
	場面で見られる。
	「愛国心」は、本当に“みんなのため”に必要なのか。それは“私のため”
	に必要なだけなのに、そしてそれは「愛国心」でなくてもいいかもしれな
	いのに、誰もが<私>の問題から目をそむけているだけなのではないだろ
	うか。
	(P.010)
 
「不安」や「恐怖心」はそのシャドーとしてさまざまな幻影を現象化させる。
「強さ「や「正しさ」といったものに脅迫的にこだわるのもそのひとつ。
おそらく「愛国心」もそのひとつなのだろう。
「自分の国を愛せない人に他の国が愛せるだろうか」という
詭弁のような科白も後を絶たないが、
愛国心を強烈に持ったアメリカは大した根拠もなくイラクを攻撃した。
そもそもアメリカにもともといた人たちを虐殺してできたのがアメリカなのだ。
もちろんここでいいたのは、そんなアメリカのことではなく、
「愛する」なら目の前にいる人がまずいるではないかということなのだ。
 
ともかく、最近の日本のムードはちょっとコワイ。
マスコミさえすぐに迎合しようとするのは
戦前の新聞のようなふんいきさえある。
言葉狩りのように、それは外からの強制ではなく、
自分から進んでそうしてしまうようなところがある。
そしておそらくは、それが今の日本の人たちのつくっている
集合無意識的な「気分」なのだろう。
それがいちばんコワイ。
 
日本とその文化に関心があるならば、
それを教条的なかたちで「べき」にするのではなく、
いいとこどりの「物語」にするのではなく、
さまざまな側面から目をちゃんと開けて見る必要がある。
「日本」にはかつて「日本」ではなかった部分もたくさんあること
それを「日本」ということでくくることが出来ない部分もたくさんあることまで
ちゃんと目を開いて見ていく必要がある。
「物語」に酔うほど簡単なことはない。
そこにアイデンティティを探すのはこれほど容易なことはない。
 
それよりも重要なのは、やはり<私>なのだ。
「日本」を持ち出すにしても「愛国心」を持ち出すにしても、
はたまた「公」をもちだすにしても
それらはすべて<私>から発するのだから。
葛藤があるならば、それを切り捨ててしまうのではなく、
その葛藤とともに生きるのがいい。
そこからしかなにもはじまらない。
君が代を歌ったからといってどうなるものでもない。
 
	 国家レベルだけではなく、社会のあちらこちらにも「私は正しい」「私は強い」
	「自信を持ってこう言いたい」と胸を張り、間違っていると感じられる相手や弱い
	と思われる人に対して、断固と抗議したり厳しい態度を取ったりする人があふれ始
	めた。
	 そういう自信家たちは言う。これまで戦後日本社会は、あまりに個人の自由を大
	切にしすぎたために、公の意識が衰退してしまった。いまこそ、個人の欲望にとら
	われるのをやめ、必要なら<私>を捨てても、国としての自信を取り戻し、公のた
	めに考えようではないか、と。
	 私には、これは状況をまったく取り違えた結果の間違った判断にしか思えない。
	問題は、<私>を大切にするあまり公の意識を失ったことにあるのではなく、それ
	ぞれが本当の意味で<私>に向き合ってこなかったことにこそ、あるのではないか
。
	 いま私たちがしなければならないことは、個々人の内面にある葛藤や不安から目
	をそむけずにそれを見つめ、それぞれがそのことを自覚した上で克服を試みること
	なのではないだろうか。
	(…)
	 積み残したまま発車した<私>の問題が、逆に公へと人々の関心を向かわせる。
	そして、それがただの流行現象や消費行動に結びつくだけではなくて、教育基本
法を変え、有事法制を作り、いま憲法までが変わろうとしている。
	 それで果たしていいのか。それを承知の上で、それでも日本にはいま「愛国心」
	が必要だ、というなら私にはもう、言うべきことばはない。
	(P215-216)
 
やはり「愛国心」が必要だと大きなことを言うまえに、
「愛する人」に「愛している」ということのほうが
ずっとずっと大事なことなのだと思うのだ。
おそらくはそのことが「公」の基礎になる必要がある。
「私」と「あなた」の間に「愛」がないとしたら
どこに「愛」を展開させていけるというのだろう。
 
 

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