風のブックマーク2004
「思想」編

 

仲正昌樹『「みんな」のバカ!』


2004.8.9

■仲正昌樹『「みんな」のバカ!/無責任になる構造』
 (光文社新書152/2004.6.20.発行)
 
「みんな」とはいったい誰のことだろう。
 
「みんながやっていることだから」という「みんな」。
「みんなで決めたことだから」という「みんな」。
「みんなはわたしのことをどう思っているのか」という「みんな」。
「みんながわたしを邪魔にしている」という「みんな」。
 
「みんながやっていることだから、わたしもして何が悪い」というとき
自分を「みんな」のなかにふくませているけれど、
「みんなはわたしのことをどう思っているのか」というとき
「みんな」のなかに「わたし」はいない。
「みんな」のなかに「わたし」がいたり、いなかったり。
この「みんな」ということばは、考えてみるととても不思議な言葉で、
「世間」とも似ていたり、「そういうものだ」という意味にも繋がったりする。
とても都合がいいけれど、とても無自覚で危険ななにかがそこにはふくまれている。
 
「赤信号、みんなで渡ればこわくない」というとき
赤信号を渡っている「わたし」がいる。
そしてなぜ赤信号を渡ったのかときかれても
「みんなが渡っているから」と答える「わたし」がいる。
むしろ赤信号をいっしょに渡らないことで
「わたし」には「みんな」ではないという視線が冷たく向けられたりもする。
 
とても身近でだれでもつかっているような、
とてもわかりやすい言葉、「みんな」。
本書ではそれがとても深いところにまで論じられている。
 
たとえば、なあるほど!と思わず膝を打ったのは、
「みんな」というのはハイデッガーの「das Man(ダス・マン)」ー「ヒト」を
そのように訳すとよくわかるということ。
通常、das Manは「ヒト」に「ダス・マン」というルビをふったり、
「世間」とか「世人」とか訳されたりもするようである。
ちなみに、通常Manは男性名詞でder Manというふうに使われるが
das Manという表現でその人はだれでもあるけれど
それは特定のだれだということはできない、というような
そんなニュアンスの表現になるように思う。
 
本書のなかに『存在と時間』のなかのdas Manのところを
「みんな」と訳した例があるのでそれを。
訳文のベースは「中公クラシックス」)
 
        このように目立たず確認しがたいことのうちで、「みんな」はおのれの
        本来的な独裁権をふるう。われわれは、「みんな」が楽しむとおりに楽
        しみ興ずる。われわれが文学や芸術を読んだり見たり判断したりするの
        も、「みんな」が見たり判断したりするのとおりにする。だが、われわ
        れが「群衆」から身を退くのも、「みんな」が身を退くとおりにするの
        であり、われわれは、「みんな」が憤激するものに「憤激」する。「み
        んな」は、いかなる特定の「みんな」でもなく、たとえ総計としてでは
        ないにせよ、すべての人々であるのだが、そうした「みんな」が、日常
        性の存在様式を指定するのである。
 
ちょうど先日、ハイデッガーの『ヒューマニズムについて』を読んだところで、
そこにはdas Manはでてこないが、「ヒューマニズム」について論じられるなかでも
その「みんな」的なヒューマニズムが問い直されているように思えたが、
それについてはまた別の機会に。
 
それはともかく、本書はここで終わってはいない、これが出発点なのだ。
ここから説き起こされる視点がなかなかすばらしい。
しかもぼくの好きなドイツ・ロマン派の「イロニー」の視点にまで
それはつながっているくるのだ。
シュレーゲルやノヴァーリス、ヘルダーリン。
 
その視点というのは、
 
        「みんな」について「物語」れば「物語」るほど、「みんな」が「わたし」
        から離れていくという奇妙な現象
 
のこと。
それではたと気付いたのだが、
この仲正昌樹は、数年前に読んだことのある
『<隠れたる神>の痕跡』(世界書院)の著者でもあったのだ。
ヘルダーリンやハイデッガーなどについて論じられていた著書で、
テーマが以前から知りたいと思っていたものだったので
かなり高価であるにもかかわらず思い切って購入した貴重な一冊。
 
さて、それはまた別として、
この「奇妙な現象」について少しだけ紹介してみることにする。
 
        “わたし”という存在が「みんな」の内に“自然と”溶け込んでいるとす
        れば、“わたし”にとって自/他の区別はなく、「わたし」という存在を
        意識することはないはずである。反省的に自己を意識している「わたし」
        と、「みんな=共同体」の「物語」の間に越えがたい距離が生じているか
        からこそ、「わたし」が「みんなの物語」に憧れを抱き、“みんな”とい
        う言葉に頼ってしまうのである。
        そのように、過ぎ去ってしまった「みんなとの懐かしい日々」を言語の助
        けによって再現前化しようとする“わたし”を、より醒めた第三者的な
        「わたし」の視点から描き出す手法を、ドイツ・ロマン派はイロニー(皮
        肉)と呼ぶ。日本では、ロマン派というのは、とにかく「(魂の)ふるさ
        と」的なものに対するノスタルジックな思いを歌い上げようとする“ロマ
        ンチックな”文学の流派だと考えられがちだが、それが全てではない。そ
        うしたノスタルジックな「言葉」を発することによって、かえって、「み
        んな」との距離感が意識化されてしまうというアイロニカルな現象をも含
        めて描き出そうとするのが、ロマン主義である。
        (P197)
 
このイロニーという視点は非常に重要である。
これについてもまた別の機会にとりあげてみたいと思う。
 
さて、この仲正昌樹、なかなかおもしろそうな人で
社会思想史・比較文学を専攻ということになっているが
調べてみるとここ数年でかなりたくさんの著書を書いている。
手頃だったので、早速、『「不自由」論』(ちくま新書432)を読んでみた。
これもまたとても刺激的な内容でふうむと深く感心。
しばらくはその著書を読み進めることになることになりそうだ。
 
・・・と、これではほとんど紹介にはなっていないかもしれないので、
またあらためてその著書からご紹介してみる機会をつくってみたいと思っている。
 
 

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