風のブックマーク2004
「思想」編

 

池田晶子『41歳からの哲学』


2004.7.19

■池田晶子『41歳からの哲学』
 (新潮社/2004.7.15発行)
 
おなじみの池田晶子である。
芸術的なところと
自然学的なところを除けば、
共感せざるをえない現代のソクラテスである。
 
今回は、あの『14歳からの哲学』の「14」を
半ばパロってひっくりかえし、
「41」歳にしたタイトルになっている。
子どものためのものに対して大人のためのもの。
 
とはいっても、書いていることにそんなに違いはない。
もちろん『14歳からの哲学』は教科書風になっていて
それに対してこれはエッセイであるが、
どちらもわかる人にはいうまでもないことばかりだし、
わからない人にはどこまでいってもおそらくわからない内容だろう。
 
言葉がむずかしいというのではない。
言葉はとびっきりやさしい。
これが読めなければ日本語が読めるとはいえないだろう。
これがむずかしく感じられる人がいるとしたら、
思考がないということにほかならない。
考えていないから、考えをたどれない、
自分で考えることのほうに向かうことができないということだろう。
 
毎回ほとんど金太郎飴のような言葉で、
世の中に考える人がたくさんふえたとしたら
こういう池田晶子のような人の存在意味がなくなるだろうけど、
そうならないところが、世の中がかなり変なことを証明しているのかもしれない。
たぶん、池田晶子は酒飲みのようだから、それとかで短命にならないかぎり、
まだまだ活躍の余地はあるのだろうと予想される。
とはいえ、やはり芸術的な部分とかが希薄なのは
つまんなくないですか、とかは思うのだけれど、
余計なお世話だと言われてしまうだろうな(^^;)。
 
ということで、このなかからいつくかランダムに引用紹介しておきたい。
これらはあまりにもあたりまえなのだけれど、
それが世の中にはなかなかあたりまえにならないことを如実に表わしている。
 
         生命保険とは、自分のためではなくて、家族のためのものである。
        残された家族が不自由しないようにと、人はそれを憂えているので
        ある。人は、自分が死んだあとのことまで、憂えるものなのである。
        人の世においては、死は、自分の問題ではなくて、あくまでも残され
        た者の問題だということだ。生命保険は、この人性の情と弱点とを、
        正しく知っている。
         けれども、考えてみたい。自分が死んだあとのことを憂えるという
        のは、いったいどういうことなのか。
         死んだら自分はいなくなるというのが、生命保険という思想の大前
        提のはずである。それなら、いない自分が、なんで憂えることができ
        るものだろうか。憂えたくても、憂えるためにいなければならない自
        分がいないのである。いない自分が、自分がいなくなった世界のこと
        を憂えることなど、できるわけがないではないか。生命保険は、哲学
        的には、完全に無理な思想なのである。
        (P38)
 
         人生の価値は、生活の安定や生命の保証にあると思っていると、そ
        のこと自体で、人は萎えてくるように思う。倒産から脳梗塞まで、人
        生にはいろいいろあるのが当たり前だからである。むろん、それはそ
        れで大変なことである。けれども、そんな大変なことどもを、どれだ
        け萎えずに生き抜くことができたか、それこそが人生の価値なのだ。
        そう思っていた方が、逆に生きやすいような気がする。
        (P44)
 
         出会い系にせよ、ネットチャットにせよ、なぜ人は、さほどにまで
        他人を必要とするものだろうか。「人とつながりたい」「自分を認め
        てもらいたい」というのが、ハマる人々の言い分である。しかし、自
        分を認めるために他人に認めてもらう必要はない。空しい自分が空し
        いままに、空しい他人とつながって、なんで空しくないことがあるだ
        ろうか。人は、他人と出会うよりも先に、まず自分と出会っていなけ
        ればならないのである。まず自分と確かに出会っているのでなければ、
        他人と出会うことなどできないのである。
         見も知らない人と、愚にもつかない話をするよりも、得体の知れな
        い人と、無体なセックスをするよりも、独りでいる方がいい。独りで
        自分と話している方が、はるかに豊かである。それを知らないのは、
        楽しみと喜びというのは、全部外界にあるものだ、外界から与えられ
        るものだと、深く思い込んでいるからである。家に引きこもって、パ
        ソコンだけで人とつながっている人とて同じである。他人によらなけ
        れば、自分の存在理由が見出せないのである。
        (P47)
 
         そも少子化とか、誰にとっての問題なのか。産むか産まないかは、
        完全に個人の問題であって、社会問題になること自体がおかしいので
        ある。人間を馬鹿にしているのである。ましてや、将来産まれてくる
        人、その当人にとって、少子化問題がどうして問題であるはずがあろ
        うか。
         私には子供はいないし、欲しいと思ったこともないが、同じく、
        他人に老後を見てもらおうと思ったこともない。税金だ年金だなんて
        いうのは、くれてやるもんだとしか思っていない。自分というものを、
        社会的経済的諸条件による存在だとは、思っていないからである。
        (P100)
 
きりがないからこれで引用はやめるが、
要は、考えるか考えないかの問題である。
それ以外にはない。
考えないと、「社会的経済的諸条件」やそのほかの刷り込みに
容易に足をとられ雁字搦めにされて悩みの淵に自分で自分を置いてしまう。
それだけのことなのだけれど・・・。
 
 

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