風のブックマーク2004
「思想」編

 

丸谷才一『ゴシップ的日本語論』


2004.7.5

■丸谷才一『ゴシップ的日本語論』
 (文藝春秋/2004.5.30発行)
 
丸谷才一の、たとえば言葉に関する話には
とくに共感を得るところが多々あるのだが、
なぜかぼくのなかでは親和性という点で
どこかでちょっとした違和感を感じてしまうところがある。
 
それはたとえば、「憂国」的なところかもしれない、
とか思っていたのだけれど、それだけでもないらしい。
 
もちろん、たとえば次のような指摘でも
半分はそのとおりだと思うけれど
半分はそうは思えないところもあったりはする。
 
	今、しなくちゃいけないのは、ゆとり教育を即刻やめて、日本語の
	時間数を増やすこと。小学校、中学校で日本語教育を徹底的にやる
	こと。それで日本語の読み書きの能力が増せば、ほかの課目だって
	おのづから力がつく。本を読み、文章を書く力がつけば、それによ
	ってほかの本だって読める。
	(P41-42 「日本語があぶない」より)
 
そのとおりだと思うのは、日本語の読み書きの能力が
日本語を使ってものを考える際にはとても重要だということ。
そうは思えないというのは、日本語の時間数を増やしても
日本語を使ってものを考えるようになるだろうかという疑問。
もちろん幸田露伴のように自分で全部できるとは思わないけれど、
それは授業時間の問題だけでもないかもしれないのだ。
日本語の時間数を増やすことでその効果をあげるとすれば、
ただの時間数というのではなくて、
日本語で話され、書かれたものについて
興味を持てるようにする何かが必要になる。
どんなことでもそうだけれど、
興味のもてることさえ見つかれば、
人はほっといても何とかすると思うのだ。
禁止されたって頑張る。
いや禁止されたら火に油が注がれたりもする。
 
それはともかく、違和感の根っ子のところは
どうも別のところにありそうで、
収められている瀬戸内寂町聴との対談で
そのことが少しだけ、そうかもしれないというのがわかった。
それは何かというと、つまり、ぼくは文学というのが
丸谷才一のような形ではそんなに好きではないのだ。
で、それでこれまで丸谷才一の小説は途中でどれも読めなくなったりした。
もちろん文学一般を否定的に見ているとかいうのではなく
これはぼくの偏見を交えた単なる趣味指向の問題である。
文学一般に対してというのではなく、ある種の文学指向に対して、
ぼくはどうも面倒くささを感じてしまうようなのだ。
面倒くささを感じるのは、たぶん丸谷才一のある種の「文人」的なところなのだろう。
そんなに「文人」しなくてもいいじゃないか、という部分。
 
しかし、次のようなところは共感させられる。
 
	あのころの日本文学では、文学は泪で書いたり、血で書いたり
	するものと思われてゐた。今でもひょつとするとさうかもしれ
	ないけれど。でも、本当のことを言ふと、文学は言葉で作るも
	のなんです。
	(P117「文学は言葉でつくる」より)
 
ちょうどル=グウィンの「ゲド戦記外伝」についての
高橋源一郎の書評で「ことば」について
「魔法とはことばだ」という話を少しご紹介したところだけれど、
文学は言葉でつくられた構築物であるがゆえに、
その「ことば」の魔法性の部分が抱えてしまう
なんらかの匂いのようなものがあるのだ。
泪で書いたり血で書いたりする文学というのも疲れるけれど、
ことばのなかに否応なく持ち込まれる匂いというのは
なぜかどこかで香ってくるところがあるような気がする。
 
早い話、言葉の魔法をかけられてうれしく思えるようなときと
その言葉の魔法がどうにも疲れてしまうようなときとがあり、
後者の場合、どうも相性が悪いということになってしまうのだろう、
というごくごく単純な話・・・。
 
おそらくそれが最初の、「日本語の時間数を増やすこと」というあたりの
半分はそうだと思うけれど半分はそうは思わない、
というあたりと通じてくるところなのかもしれない。
 
 

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