■佐野眞一『てっぺん野郎〜本人も知らなかった石原慎太郎』 (講談社/2003.8.29.発行) 宮本常一への関心から 佐野眞一『旅する巨人〜宮本常一と渋沢敬三』(文藝春秋)を読んで以来、 ここ2ヶ月ほど佐野眞一の著書を次々と読むようになった。 先日来読み始めている川勝平太にしてもそうだが、 次々と尊敬すべき方々を発見できる喜びは何にも優る気がする。 今回読み始めた『てっぺん野郎〜本人も知らなかった石原慎太郎』は、 以前だったらまず読まなかった類のもの。 それが佐野眞一がとりあげているということで読んで見る気になった。 石原慎太郎もそうだし、その弟の石原裕次郎にしても、 これまでどうにも積極的な意味で関心を引かれたことがない。 関心があるとすれば、なぜそうした人が注目されてきたのか、 注目されているのかのほうの関心なのである。 佐野眞一は、あとがきで次のように述べている。 私の関心は・・・石原慎太郎という男それ自体の存在もさることな がら、彼に向けられた大衆のまなざしの偏光にあったというべきかも しれない。そこには、慎太郎に対する大衆の崇拝や期待、嫌悪や反発 にいたるまでのすべての感情が、激しい好悪のベクトルとなって渦巻 いている。 石原慎太郎を解剖することは、日本の戦後社会を導いてきた大衆の 欲望の歴史にメスを入れることでもある。その腑分けの記録が、この 一千枚あまりの人物論になったと理解していただければ、著書として ほかにいうことはほとんどない。 (P471-472) この著書のタイトルは、『てっぺん野郎』。 つまり、「ナンバーワン」ということなのだが、 こういう「てっぺん」を指向し続ける自我のありように対し、 その反対の「オンリーワン」というのも SMAPの「世界に一つだけの花」のヒットにも見られるように 「大衆」の指向として存在しているのが現代の典型だともいえるだろうか。 その「ナンバーワン」と「オンリーワン」の振幅のなかに 現代という時代を見ていくと この『てっぺん野郎』に描かれているといえる 「日本の戦後社会を導いてきた大衆の欲望の歴史」に さらに別の伏線を付け加えることもできるかもしれない。 お山の大将指向というのはとてもわかりやすいが そのお山の大将指向を長期間持続させている人物に寄せる 「大衆の崇拝や期待」というのはいったいなぜなのだろう。 それはもちろんある種の投影なのだろうが、 そうした在り方へのアンチともいうべき「オンリーワン」が なぜわざわざここまで強調されなければならないのだろうか。 その振幅のなかを注意深く歩んでいく必要が 今はあるのかもしれない。 その両方の振幅のなかにある無意識の蠢きを感じとろうとしながら。 |