風のブックマーク2004
「芸術」編

 

河井寛次郎・棟方志功 新学社近代浪漫文庫


2004.7.19

■河井寛次郎・棟方志功
 (新学社近代浪漫文庫28/2004.6.12発行)
 
新学社というほとんど初耳の出版社がある。
あらためて見ると『保田与重郎文庫』を出している出版社だったのだ。
ホームページを見ると、学校の教材を出している出版社のようである。
そこが、近代浪漫文庫という興味深いシリーズを出している。
ちょっとほかでは読みがたいものが揃っている。
 
ところでこの新学社近代浪漫文庫に
河井寛次郎の書いたものが入っているのを見つけた。
河井寛次郎ファンになってから
河井寛次郎の書いたものを見つけようとしているのだが
講談社文芸文庫にある『火の誓い』くらいしか見つけられずにいた。
 
この近代浪漫文庫に収められているのは
『六十年前の今』(東峰書房)という昭和43年に刊行されたものの抄となっている。
河井寛次郎の郷里の「昔」の話である。
昭和43年の「六十年前」だから、明治の中頃の話。
最初にこう記されている。
 
         これは私の郷里である、山陰の小さい港町での、今から凡そ六十年程前、
        明治の中頃の子供達は、どんなものを見、どんなものに見られ、どう暮らし
        たかと言ふ様な記事でありますが、此等は私には過ぎ去つた事ではなく、今
        もまざまざそんな中に立つてゐる自分ーー時の経過の中にゐない自分を見る
        のはどうした事でありましやう。
 
読みながら、ぼくの生まれた頃との違いを感じはするのだが、
それよりもずっと思うのは、ぼくがいかに子供の頃、
少しも自分のまわりのものにこれほどの関心を寄せることが
できなかったかということである。
河井寛次郎は、こういう視線で生きていたのである。
だからこそあの芸術が生まれ得たのだろう。
読み進めるのが愛おしくそして読み終えるのが惜しくなってくるような文章は
まるで陶器を愛しくつくるように書かれたことがわかる。
 
このなかからとくにどきりとさせられたところなどを
最後のあたりからいくつかひろいだして紹介してみることにする。
 
         整った物の物足りなさ、行き届かない物の救ひ、流行しない物の魅力、
        時代おくれのものの持つ誇り、人に見られない喜こび、誰にも知られな
        い自由、行きつけない希望、足る事のない喜こび。
        (P170)
 
         他を生かす為に自分を殺すーー生きるのには他を殺さなければならな
        いといふ、そんなことはうそだ。誰が殺し誰が殺されるのだ。さういふ
        者はどこにゐるのだらうか。殺された者は殺した者の中に生き返るーー
        それ以外に殺された者の行き所があるであらうか。不生と言ひ不滅とい
        はれるのは、これをささないで何をさすのであらう。空気に穴をあけて
        ゐる者、闇に穴をあけてゐる灯ーー
        (P171-172)
 
         自分の中に沈潜してゆく愉しさ、自分の中にいくら遊んでも遊びきれ
        ない愉しさ、何も知らないで居れる愉しさ、空白の満足、健忘症の救ひ、
        不精と怠慢にさへ生かされてゐる愉しさ。
        (P172)
 
殺された者は殺した者の中に生き返る
というのはどうだろう。
 
人に見られない喜こび、
自分の中にいくら遊んでも遊びきれない愉しさ、
というのはどうだろう。
 
こういう言葉は、ただの言葉の知的な思索からはでてこないだろう。
「物」のなかに深くみずからを注ぎ込める者だけが、
複数の「私」を自然のなかに認める者だけが、
こうした言葉をかたちづくることができるように思える。
こういう言葉をこそ祈りと呼びたいと思う。
 
 

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