■村上春樹『意味がなければスイングはない』 (文藝春秋/2005.11.25.発行) 村上春樹が「音楽のことを、腰をすえてじっくり書」いたのは、 本書のもとになった、季刊オーディオ雑誌「ステレオサウンド」に 連載されたものがはじめてのことだということだ。 タイトルの「意味がなければスイングはない」は、 デューク・エリントンの「スイングがなければ意味がない」のもじりだが、 その「スイング」というのは、 「優れた本物の音楽を、優れた本物の音楽として成り立たせている そのような「何か」=something else」のことで、 それを「僕なりの言葉を使って、能力の許す限り追いつめてみたかった」 ということである。 とりあげられているテーマは、次の通り。 ○シダー・ウォルトン/強靱な文体を持ったマイナー・ポエト ○ブライアン・ウィルソン/南カリフォルニア神話の喪失と再生 ○シューベルト「ピアノ・ソナタ第17番ニ長調」 ○スタン・ゲッツの闇の時代1953-54 ○ブルース・スプリングスティーンと彼のアメリカ ○ゼルキンとルービンシュタイン/二人のピアニスト ○ウィントン・マルサリスの音楽はなぜ(どのように)退屈なのか? ○スガシカオの柔らかなカオス ○日曜日の朝のフランシス・プーランク ○国民詩人としてのウディー・ガスリー ぼくにはなじみのあまりないテーマももちろんあったのだけれど、 どれも村上春樹ならではの語り口のためもあって、 それぞれがまるでぼく自身の体験であるかのように ぼくのなかにとても自然にとけ込みながら 大切な「スイング」/「何か」=something elseを起こしてくれたようだ。 今も、シダー・ウォルトンの音楽を聴きながら書いているのだが、 そのシダー・ウォルトンとウディー・ガスリーは これまで聴いたことがなかったこともあって、 さっそく聴いてみることにした。 ウディー・ガスリーの章は、その歌をかけながら聴いた。 スタン・ゲッツは村上春樹の小説のなかでもよく登場したものだが、 ちょうど「STAN GETZ AT THE SHRINE」などは手元にあったし スガシカオなども日本のPOPのなかでは聴き続けているもののひとつだった。 そういえば、少し前にでた村上春樹の小説にスガシカオがでてきて あれ、と思ったこともあったりした。 ぼくにとっても、村上春樹のいうように、 「優れた本物の音楽を、優れた本物の音楽として成り立たせている そのような「何か」=something else」はとても大切なもので、 そういうものが感じられない音楽を聴かざるをえないときは苦痛でさえある。 スガシカオの章にもあるように、 「なるべくならいろんな種類の音楽を偏見なく、幅広く聴きたいと 常日頃考えているし、それなりに努力もしているのだ。 しかし残念ながら、これは面白そうだ、買ってみようと僕に思わせてくれるものが、 日本のポップ音楽の中にはなかなか見あたらない」というところも確かにある。 しかし、だからこそ、なぜそこにsomething elseを見つけることが難しいのかを しっかりと考えてみることも必要になってくる。 ここに書かれてあることすべてに ぼくが大きくうなずいた、ということでは必ずしもないけれど、 ある種の同時代的な共感を持つことができたことは確かだし、 「なるべくならいろんな種類の音楽を偏見なく、幅広く聴きたいと 常日頃考えているし、それなりに努力もしているのだ。」 というのは、村上春樹に比べれば大変貧しい仕方かもしれないけれど、 共通して持ちたいと思っていることである。 そういう意味でも、本書が示唆してくれている「スイング」を これからもぼくのなかで確かめていきたい。 |