風のブックマーク2


 頼住光子『道元』


2005.12.3.Sat.

 

■頼住光子『道元/自己・時間・世界はどのように成立するのか』
 (NHK出版/2005.11.30.発行)
 
『正法眼蔵』の原文を全部読んだことなどあるわけはなく、
いつもちょい読みに近いくらいであとは解説書の世界でしか
道元にふれたことはないのだが、
日本ではめずらしい、いわゆる哲学的な傾向をもった「著作」であることもあり、
『デリダから道元へ』という著作などや、
ウィトゲンシュタイン言語ゲームとの関連から道元を論じたものなど、
現代哲学の文脈に引き合いにだされることもある関係から、
道元の言葉にはおりにふれて関心をもってきた。
 
とはいうものの、道元について自分なりにまとまったイメージをもつほど
道元を読み込んだことがないこともあって、
道元に関する著作をこうした場でご紹介したり、
これまでその言葉をなにかに関連づけて言葉にしてみることは
あまりなかったのではないかと思う。
 
今回、このNHK出版からでている「シリーズ・哲学のエッセンス」に
「道元」という巻がでているのを知り、またサブタイトルが
「自己・時間・世界はどのように成立するのか」となっているのもあり、
興味を引かれて読んでみることにしたが、
ぼくのなかでの道元が、この著作を通じて
ようやくあるイメージを形成するようになった気がしている。
 
ぼくのなかである思想家や宗教家があるイメージを形成できるのは
伝記的な物語という側面はどちらかというと希薄で、
(それが面白くないとか、参考にならないというのではないのだが)
やはりその言葉なりの理念がある宇宙を形成してくれないと
いまひとつぼくのなかでは教科書のなかで紹介される類の
名前を超えることが難しいのである。
 
道元のある種の文章は、前衛的といわれるような現代音楽に似ている。
さまざまな楽器が、それぞれの音を響かせるように、文章の中の言葉
の一つひとつが、立ち上がってきて、独自の意味を主張する。それぞ
れの楽器が奏でるメロディーは、部分的に聴けば無意味な音の羅列、
不協和音に思えるが、全体には、見事に調和した音楽が鳴っている。
道元を読むとは、それぞれの音に耳をこらしつつ、音楽の全体を聴く
ような体験である。最初は、個々ばらばらな無意味な音しか聞こえて
こないから、当惑し混乱する。しかし、ある瞬間、音楽の全体が聴こ
えてくる。今まで無秩序な混乱にしか見えなかった音の氾濫が、一つ
輪郭を持って立ち現れてくる。(P125)
 
たしかに道元の言葉は、よくわからない漢字がたくさんでてきて
読むのに難渋せざるをえないのだが、
今回あらためてよくわかったのは、それらは
空と縁起など、仏教の基本的な理念そのままであって、
それをきちんと理解することが道元の音楽を楽しむための
いちばんの近道だということだった。
 
本書で扱われているのは、道元ならではのテーマであるのはもちろんだが、
基本的には、この世界を、この自己を、時間を
どのようにとらえるかという、最も基本的な仏教理解であるように思えた。
そのようにとらえてみると、道元の言葉は、なんと「現代音楽」しているのだろう、
しかもその根底にはちゃんとバッハが響いている・・・というような
イメージでとらえることができるような気がしてきた。
 
シュタイナーの言葉が読まれないのも、
ある意味では、道元以上のようなところがあるが、
結局のところそれが読まれにくいのは、
それが何を「指月」しているのかが
つまりその「音楽」が聞こえてこないからなのだろう。
 
さて、今回本書を読むことでさらにはっきりしてきたことは、
こうしたある意味では神秘主義的な視点の限界についてであった。
つまり、「空」であるとか「縁起」であるということはよくわかるとしても、
その「空」や「縁起」がどのようであるかについては
なにも具体的に語る方法がそこにはないということであった。
 
そういう意味で、西洋には、プラトンだけではなく、
あのアリストテレスが燦然と輝き、
さらにその両者がシュタイナーを通じて総合されることによって
それらをできうる限り総合的にかつ具体的に語ることのできる方向が
示される可能性を得たのだということができる。
だからこそ、シュタイナーはなおのこと、理解されにくいのかもしれないのだが。
  

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