風のブックマーク2


 川崎謙『神と自然の科学史』


2005.11.23Wed.

 

■川崎謙『神と自然の科学史』
 (講談社選書メチエ345/2005.11.10発行)
 
自然はnatureの訳語として使われているが、
その違いが理解されていないことで、
「科学」への錯誤が生まれている。
西欧と日本における自然観を相対化できる視点が必要である。
 
study natureを訳すとき、
natureは目的語なので、「自然を学ぶ」とすると思いきや、
日本人の多くは、「自然に学ぶ」とするらしい。
もしくは「自然から学ぶ」。
 
「自然に学ぶ」とするのならば、
では、自然に何を学ぶのか、ということになるのだが、
日本語における自然観は、「自然を学ぶ」といふうに
自然を対象化・客観化する方向にはいきにくいようである。
 
西欧においては、プラトン以来、
イデア界、Logosの世界といういわば実相の世界と
この物質世界は別であり、創造主の内なる「イデア」は
理性reasonによってのみとらえることができるとされている。
現在のようなきわめて唯物論的にみえる世界にあっても、
西欧の自然科学的認識の根底には、それがある。
 
しかし、日本の自然観においては、
著者が諸法実相ということで表現しているように
物質界とイデア界を分けてはとらえずそれを同じものとみているといいます。
ここで諸法というのが物質界であり、実相というのがイデア界。
しかも諸法は実相であるというのが転倒されて、
道元が解釈したように「実相は諸法なり」というように、
この物質界そのものがイデア界でもあるということになっている。
もちろん実際はそんなに単純にいうことはできないだろうが、
実際、日本においてはこの世界を離れた「理念」という発想は希薄である。
しかも、その諸法でもある自然というのは、
西欧のように人間が働きかけることのできるものではなく、
否応なくそこにあって人間に働きかけてくるものというところがある。
 
シュタイナーが、なぜ日本人が西欧以上に唯物論的になってしまう
危険性があるという意味のことを言っていたのかが、
このことからよくわかってくる。
西欧においては、姿を変えたかたちで「理念界」的な認識があるが、
日本においてはそれがなく、この物質界そのものがすべてであるというように
徹底されてしまう危険性が大きいわけである。
これは、天台宗における複雑な論理展開の末に辿り着いた
この山川草木すべてがそのままで成仏している云々の観点が即物化し、
この物質世界そのものがすべてでそれ以外は何もない、
というようなどこにも歯止めのきかない見方になってしまっているわけである。
こういう結論だけが卑小化される類の安易さというのはよくあるもので、
そこへ辿り着くための膨大なプロセスはそこでは単なる戯画になってしまうのである。
 
本書は、西欧自然科学が日本において
natureへの理解にみられるような認識のもとに誤解されたまま受容され、
しかも現代においてはそれが普遍的なものであるかのように力をもっているために
二重の意味で屈折した迷路のようになってしまっている状態から抜け出すために、
まずは日本人が西欧のnatureや科学について知らないということを知ることで
最初の迷路を脱するということを本書で試みている。
現状はその、自分が知らないでいるということを知らないでいるのである。
このことは非常に重要な認識的問題である。
 
日本におけるシュタイナー受容の諸問題もこのことから読み解くこともできる。
シュタイナーはある意味で、西欧の文脈において、
諸法実相的な観点に近いところにいた部分があるようにも思うのだが、
そこには膨大なプロセスが必要なところがあるのだが、
日本においてはその不可欠なプロセスが欠落してしまうところがあるように思われる。
つまり、何もわかっていないにもかかわらず
「わかった気」になって、結局何もわからないままになってしまうというわけである。
 
その意味で、日本におけるシュタイナー受容は、
まるで禅の十牛図において最初のところに帰ってくるのに
膨大なプロセスをたどらなければならないように、
西欧においてはある意味で「旅」で済む話が、
往った後に、もう一度復ってこなければならない部分がある。
 
そのプロセスの最初の部分である
「自分が知らないということを知る」という課題を持つために
本書はそのもっとも基本的なところを明らかにしようとしてくれている。
ある意味、現代日本人すべての必読書だといえるかもしれない。
 

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