風のブックマーク2


 小林秀雄対話集


2005.12.24.

■小林秀雄対話集
 (講談社文芸文庫/2005.9.10.発行)

小林秀雄が好きになった。
ぼくにとっては、記念すべき対話集である。

小林秀雄をいちばん最初に読んだのは、
記憶にあるかぎりでいえば、高校生のときだったが、
そのときは、おそらく読んでさえいなかったのだろう。

大学の頃にも、その後にも、繰り返し、
少しずつ読む機会はあったのだけれど、
そのときにもおそらく読むことができたとはいいがたい。

ようやくぼくのなかで小林秀雄の言葉が響き始めたのは、
シュタイナーを読み始めた頃のことだといえるかもしれない。
ぼくのなかで小林秀雄にもシュタイナーにも通じなながら
それを切実なぼくのなかの音楽としてとらえるまでには
30年以上が必要だったということなのだろう。
しかしそのときにも、シュタイナーは読む切実さを感じたが
小林秀雄はまだそうではなかった。

ようやくそうなりはじめたのは、ここ10年ほどくらいだろうか。
しかしまだそれでも小林秀雄が好きになったわけではなかった。
そしてようやく、この対話集を読みながら、
小林秀雄が好きになった自分を見つけることができた。
なかなかいい気分である。
好きになるということほどいい気分はない。
好かれるというのもいいことだけれど、
好きになるというのほどいい気分を味わえることはない。

この対話集の最後に収められた田中美智太郎との対話のなかで、
小林秀雄がこんなことをいっているが、まさにそうだ。

そういう学問についての教育の仕方がまちがっているんじゃないか
と思うんだな。いまの恋愛の話じゃないけれど、好き嫌いという問
題が後回しになっている。孔子がいっているね、「知る者は好む者
に及ばない。好む者は喜ぶ者に及ばない」。
好むとか喜ぶとうことが孔子にとってはひとまず現実から離れても
いいことなんだ。そうした根底的なものの認識が、いま逆になって
いる傾向があるんじゃないかな。

いまようやく、「好む者」になることができたが、
ひょっとしたら「喜ぶ者」になる可能性もあるかもしれない。
シュタイナーについては、すでに「喜ぶ者」になっていると
じぶんではおもっているのだけれど。

ところで、もちろんこの「好き嫌い」というのはでたらめなものではない。
こうも言っている。

だいたい好き嫌いというのは、でたらめのようですけれど、論理の
ようなでたらめさではないですよ。(笑)赤い花を青いという奴は
いない。いわゆる趣味は多様だけれども、乱れるということはない。
やたらと頭を働かすから乱れるのだ。

ぼくも昔からほとんど「頭」を働かせるというのはなかったなあと思う。
こうしていろいろ書いていると、頭を働かせているように思うひともいるかも しれないが、
たとえばぼくのいう「思考」というのは、少なくとも頭を働かせるというとは違う。
ぼくは、(ぼくのばあいはかなり稚拙な仕方でしかないだろうが)
ほとんど好き嫌いでやっているところがある。
だから、こうしてネットをはじめたときの自分なりの宣言として
「嫌いでも理解」ということを挙げたことさえあったりした。

ところで、ぼくがこの対話集で、小林秀雄が好きになった大きなきっかけは
おそらく正宗白鳥との対話だろう。
小林秀雄は正宗白鳥が大好きらしい。
その大好きということで率直に対する小林秀雄がほんとうにいいのだ。

正宗白鳥をぼくはほとんど読んだことがないが、
小林秀雄が好きというのだから好きになれそうだ。
ぼくもそっちょくに読んでみることにしたいと思っている。

 

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