風のブックマーク2

湯川豊『星野道夫インタビュー』


2006.9.9

 

■湯川豊『終わりのない旅 星野道夫インタビュー』
 (スイッチ・パブリッシング/2006.8.23.発行)

今年の8月で星野道夫の没後10年になる。
没後10年といえば、武満徹と同じ時期に亡くなっていることにあらためて気づく。
星野道夫と武満徹、その活動した領域は異なるが、
どこかで共振しているところがあるのではないかとふと思う。

そういえば、おそらく没後10年ということだろうが
先日、星野道夫の写真に語りを音楽を入れたDVD全3巻が発売された。
なんと語りはオダギリジョー。
未見ではあるけれど、ぜひ目を通して見たいところである。

さて、本書には、1994年に2回にわたって行われたインタビューと
コヨーテの2004年11月号に収録された「アラスカ原野行」(補筆されたもの)、
そして「星野道夫の十年」という池澤夏樹の文章が収められている。

じっと耳をすませたくなるようなとき、星野道夫の写真と文章、
そして星野道夫について書かれている文章にふれたくなることがある。
ある意味、星野道夫という存在はすでに神話の人物のようなところがあるが、
その神話の人物にどこかで語りかけられているような、そんな気持ちになるのだ。

そういえば、最後の著作『森と氷河と鯨』のなかでは、
ワタリガラスの創世神話が語られる。
それはおそらく現代人がすでに失ってしまおうとしている
神話を再生させる可能性にも通じているのかもしれない。
もちろん、かつてのような神話では
もはや私たちに語りかける力は持ち得ないだろう。
しかし、ほとんど死出の旅路をも意味しかねない私たち現代人のなかに
もっとも必要なものは、新しい神話なのかもしれないのだ。

神話といえば、シェリングの「神話の哲学」を思い出す。
ヘーゲル全盛の時期、ほとんど顧みられることがなかった「神話の哲学」。
それはある意味「未来の時代の物語」であるともいえるかもしれない。
「自然の哲学」を重用視したシェリング。
それが「消極哲学」ではなく「積極哲学」としての「神話の哲学」へと向かう。
もちろんその試みは完成されたものであるとはいいがたいのだけれど、
ある種、近代の果てにおいて失われてしまったものを再生、
いやあらためて再創造へとむかうために必要なものを
シェリングは見ようとしていたのかもしれない。
星野道夫もまた。

もちろん、その「神話」は、シュタイナーの精神科学のなかにおいて、
その発展的展開をも見ることができるようにぼくは思うのだけれど、
ここではそれにはふれないでおこう。

さて、本書でもっとも今回心にふれたところは、
「個の死が、淡々として、大げさではないということ」。
現代では、死がみのまわりからあまりに遠ざけられているために、
自分が死ぬということにあまりに「大げさ」な身振りをしすぎるのではないか。
そんなことを思うことがある。
もちろん、「お国のためにためらわず死ね」というような馬鹿げた見方は
避けられなければならないが、死への不案内故に引き起こされる恐れの肥大が、
個の死が永遠のなかでどのように位置づけられるかという視点を
阻害しているように見えてしまうのだ。
星野道夫の神話の再生の試みも、霊的な視点の再獲得でもあったように思える。
その試みを、私たちは日々のなかで再獲得していかなければならない。

ところで、本書の最後で、池澤夏樹が、
星野道夫の「人気の高さ」への危惧を記しているところがある。

ある時期、彼の人気のあまりの高さをぼくは危惧した。どういうこと
になっているのだろうと考えこんだ。今の文明に刃を突きつける強烈
な思想は手際よく省かれ、美しい風景とかわいい動物だけが抽出され
て消費される。星野の肉体はヘッド・スープにはならず、カレンダー
と絵はがきに加工されて、歯ごたえのない安直な食べ物に堕してしま
う。
しかし、この危惧はたぶん間違いだ。
メッセージの受容はさまざまな形を取る。彼自身の役割を代行するつ
もりで働いたぼくたちの予想や思惑とは別のところで、メッセージそ
のものがそれを求める人々を探して広い世界に散っていった。行く先
々で歓迎された。

おそらくその危惧は間違いでもないのだろうが、
ある種の裾野の広がりを通じてしか可能にならないものもあるだろう。
池澤夏樹はここで、星野道夫をイエス・キリストとくらべていたりもする。
キリスト教の歴史がイエス・キリストへの大いなる錯誤の歴史であるところが あったとしても、
その錯誤による広がりが必要であるところがあったともいえるのだから。
おそらく、シュタイナーもまたしかりと思い、
現状のようなシュタイナー受容にも単なる危惧をもたないほうがいいのかもしれない。