風のブックマーク2

山口仲美『日本語の歴史』


2006.7.6.

 

■山口仲美『日本語の歴史』
 (岩波新書/2006.5.19.発行)

本書の執筆意図にもあるように、日本語の歴史については、
研究者のための専門書はあるものの一般向けに書かれたものはなかったといいます。

そういえば、漢字を使って日本語が記述されるようになった奈良時代の万葉集 からはじまって、
現代のように、ある程度「話し言葉」と「書き言葉」が近い関係にあるように なるまでの
具体的な変遷についてまとまった形で読む機会をもったことはありませんでした。

そのくせ、古代から現代までのさまざまな「日本語」として記されたものは
さまざまな形で目にしながら、それらをいちおう「日本語」として読む機会はあって、
そのつど、この時代のことばはこんなだったんだろうと思いながら読んできた のが実際のところ。
言葉とその表現・表記の関係について、歴史的な変遷を踏まえながら読む、
という視点は希薄だったのはたしかです。

その意味でも、こうした、ひとりの著者による日本語の歴史についての一貫し た記述を通じて、
そうした視点を獲得できるというのは重要です。
この著書、わりと読む読まれているらしい
『犬は「びよ」と鳴いていた』(光文社新書)の著者でもあります。

日本語への興味を喚起するという意味でも、
また今自分の使っている日本語という言語について、
それを歴史的な流れのなかで意識的にとらえなおすという意味でも、
著者の試みは、大いに評価されてしかるべきだと思うのです。
実際、本書も、また『犬は「びよ」と・・』も、とても面白く、
こういうものを国語教育の教科書か副読本にすれば、
「古文」「漢文」「国語」とかいうかたちで、
ある意味で、なんだか居心地の悪いままで放置されてしまっていた日本語が
ずいぶん楽しくかつ意識的に学べるようになるのではないでしょうか。

本書のなかで興味をひかれたテーマはたくさんあるのだけれど、
なかでもとくに納得したのは、「係り結び」とその消滅についてのところでした。

「係り結び」というのは、いうまでもなく、「ぞ」「なむ」「や」「か」とかういう
「係助詞」があったら終止形ではなく連体形で結ぶという規則です。
「花、咲きけり」に対して、「花ぞ、咲きける」となるというもの。
この「係り結び」が、鎌倉、室町と次第に使われなくなってくるのだという。
大変興味深いところなので、その変化について書かれてあるところを引用紹介 してみます。

 係り結びというのは、強調したいところに係助詞「ぞ」「なむ」 「や」「か」
「こそ」を挿入します。すると、そこで文が一時ぷつんと中断される。論理の
糸が切れるのです。「もと光る竹なむ一筋ありける」を思い浮かべてみると、
「もと光る竹」で文が一時中断されますね。かわりに、切れたことによって情
緒的な雰囲気がかもし出されます。その後、再び「一筋ありける」に戻って文
がようやく完了します。
 係助詞というのは、主語であるとか、目的語であるとかいう、文の構造上の
役割を明確にしない文中でこそ、活躍できるものなのです。たとえば 「花無し」
のように、「花」と「無し」とがどういう関係にあるのかを明示する助詞がな
いときにこそ入り込めるのです。「花ぞ無き」「花なむ無き」「花や 無き」「花
いかでか無き」「花こそ無けれ」のように。ところが。「花が無い」 のように、
主語であることを明示する助詞「が」が入ってくると、係助詞が入り 込みにくく
なります。「花がぞ無き」「花がなむ無き」「花がや無き」「花がこ そ無けれ」、
変ですね。
 鎌倉、室町時代には、まさに、こういうことが起こり始めたので す。文の構造
を助詞で明示するようになってきたのです。とりわけ、鎌倉時代には いると、主
語を示す「が」が発達してきました。
・・・
 係り結びの消滅は、日本語の構造の根幹にかかわる重要な出来事で す。日本人
が情緒的な思考から脱皮し、論理的思考をとるようになったというこ となのです
から。
(P.119-120)

この「係り結びの消滅」もそうですが、論理的思考に向かった日本語の変化と いう点で、
もうひとつ特筆すべき現象がこの時代にはでてきたといいます。
それは「文と文との関係を明示しようとする現象」です。
平安時代のひらがな文は、文と文の関係を明示しない方向で書かれ、
接続詞は未発達だったということですが、
鎌倉・室町時代には、「しかれども」「されば」とかいう接続詞によって
文と文の関係を明示するようになってくるのだというのです。

鎌倉・室町時代といえば、ヨーロッパでは、
12世紀ルネッサンス以降の時代になりますが、
その比較で言葉の変化をとらえてみるのも興味深い作業かもしれません。

西洋の言葉にくらべて、日本語は大変複雑な表記がされますし、
明治以降はとくに、書き言葉と話し言葉の距離を縮める努力がなされてきましたが、
そういう複雑な事情もふくめて、現代の日本語をできるだけ意識的にとらえて みる視点は
自分の思考そのものを複線化する意味でも非常に豊かな作業となるのではない でしょうか。
そのひとつのきっかけとしても、本書は小著ながらも、大変有益な一冊となる はずです。