風のブックマーク2

山村修『<狐>が選んだ入門書』


2006.7.6.

 

■山村修『<狐>が選んだ入門書』
 (ちくま新書/2006.7.10.発行)

なぜ「<狐>が選んだ」なんだろうと思って手に取ったら、
「日刊ゲンダイ」に「狐」という匿名でずっと書評を書いていたのが、
この山村修なのだそうだ。
<狐>も「山村修」もどちらも知らずにいたのだけれど、
この一冊を読んで、いきなり山村修のファンになってしまって、
『気晴らしの発見』やら『遅読のすすめ』やら
『水曜日は狐の書評』やら、続けて楽しく読んでいる。
ともかく、品のある文章、的確な表現、そしてそこにもられている思考の柔軟さ。
これは特筆すべきではないだろうか。

本書には、25冊の「入門書」が紹介されている。
ふつういわれるところの「入門書」とは、
「原典の補助となる本のこと」をいうのだけれど、
山村修によれば、それは「入門書」ではなく「手引書」だという。
では、ここで「入門書」とされているのは、というと…。

私のいう入門書はちがいます。むろんある分野やことがらを対象にして、
一般の読書人向きに書かれた本ではあります。あくまでも平明な文章で
つらぬかれた本でなければいけません。しかし右のように、何か高みに
あるものをめざすための手助けとして、階段として書かれた本ではあり
ません。
そうではなく、むしろそれ自体、一個の作品である。ある分野を学ぶた
めの補助としてあるのではなく、その本そのもののに、すでに一つの文
章世界が自律的に開かれている。思いがけない発見に満ち、読書のよろ
こびにみちている。私が究極の読みものというとき、それはそのような
本を指しています。そして、そのようにいえる本が、さがしてみれば、
じつは入門書のなかに存外に多いのです。
もちろん手引書であってもいいのです。もしも階段そのものが美しく、
かつ堅牢につくられていれば、それもまた一つのりっぱな作品です。

ぼくも「入門書」というのはあまり好きなほうではないのだけれど、
山村修がここで「入門書」として紹介している本の多くは、
上記引用にもあるように、
「思いがけない発見に満ち、読書のよろこびにみちている」ように
少なくとも、山村修の書いているのを読んでそう思う。

ただし、別のところで山村修について書かれてあるもので、
紹介されている本よりも、狐こと山村修の書評のほうが面白い、
と書かれてあったりもするので、実際の本がそれほど面白いかどうかは判断しがたい。
実際、ここに紹介されている25冊のうち、ぼくが読んだことがあるのは、
井筒俊彦『イスラーム生誕』をはじめとした数冊に過ぎないが、
山村修の書いている内容を読んであらためて、その的確さを実感させられたりもした。

さて、本書の「入門書」紹介は実際に読んでもらって感心していたでくとして、
最後にひとつ、「あとがきにかえて/私と<狐>と読書生活と」から。

世の職業人でいちばん自由に読書はできるのは、もしかすると、研究者
でもなく、評論家でもなく、勤め人かもしれません。

著者も、この3月31日まで長らく「勤め人」をしていたという。
1950年生まれなので、おそらく30数年以上になるだろう。
そして「日刊ゲンダイ」で書評をはじめたのが1981年のことだという。

もちろん、「勤め人」にたっぷり時間があるというのではない。
むしろその逆で、「あまりに忙しくて本を読む時間もない」というのがふつう。
拘束時間も長く、残業もあり、休日もあるようなないような。
しかし、少なくとも「職業生活と読書生活との境界」はある。
職業的な拘束がないぶん、その「境界」を超えて、
「本を読むくらいの時間は、意外につくりだすことができる」。
著者にそれが実感されたのは、書評をはじめてからのことだといいます。

ぼくは、読書家でもなく、書評を連載したりもしていないので、
比較はできないのだけれど、
たしかに、こうしてネットでなにがしかのものを書き始めてから、
「本を読むくらいの時間は、意外につくりだすことができる」というのは、
確かに実感されるところである。

シュタイナーについて(けっこう無責任に)あれこれいっているのも、
専門家ではないからというところがあるし、
だからこそ、視点で「遊戯」をすることもできるというところがある。
シュタイナーにかぎらず、何を読んでもまさに「自由」だし、
興味のあるものを渉猟すればよいのだから。