風のブックマーク2

 赤木明登『漆塗師物語』


2006.7.6.

 

■赤木明登『漆塗師物語』
 (文藝春秋/平成18年6月25日発行)

歳を経るごとに、職人に憧憬を覚えるようになる自分がわかる。
「つくる」ということに自分を注ぎ込むということ。
では、「つくる」ということはいったいどういうことなのだろう。
それはおそらく今ここにいる自分そのものを問うことでもあるのかもしれない。
「なぜ山に登るのか」「そこに山があるからだ」に近いこと。
「なぜそれをつくるのか」「わたしがここにいるからだ」。
「つくる」ということを広くとらえていくと、
自分が自覚をともなってするすべてのことについて、
(狭い意識での自覚ではなくもっと深い意味での自覚のことだが)
「わたしがここにいるからだ」といえるようになりたい。
そういう思いが日々強くなってくる。
そんななかで、「職人」の話が気になって仕方がない。

著者は、岡山県生まれ。
(これを読むきっかけは、岡山にそんな人がいたんだということから)
27歳で、輪島塗の職人修行に入る。
それまでは東京で編集者をしている。
漆のことは弟子入りするまでほとんど知らずにいたという。
そのきっかけとなったのは、1985年、角偉三郎の作品展を見たこと。
そして、角偉三郎の手を握りしめて
「ボク、輪島に来ますッ。輪島で職人になりますッ」と宣言。
輪島への移住が1988年、輪島塗下地職・岡本進への弟子入りが1989年のこと。
「何が僕を駆り立てたのかさえわからなかった」そうだ。

本書は、著者を駆り立てた「何」をめぐるものだともいえるし、
また、地元の伝統のなかで育てられて職人になったのではなく、
ある意味、共同体から離れたところから、かといって離れてしまうのでもなく、という
ふつうとは少し異なったスタンスの職人の姿を描いたものでもあ。
また、27歳というふつうではあまり考えにくい歳から
職人修行をはじめる、ある意味現代的な修行の姿を記したものだともいえる。
そんなすべてが、とても新鮮で、
ぼくなどにはそんなことはまったくできないにもかかわらず、
まるで自分のことのように感情移入をしながら、
最後は、読みながら、流れる涙を止められなかったほどだった。
歳をとって涙もろくなってきたとはいえ、ぼくにはちょっと特別な一冊になっ たようである。

著者の辿り着いたところの一端を示しているところがあるので、
最後にそれを引用しておきたい。
これは、「個」として切り離されている我々ひとりひとりが
ある意味、宇宙の流れのなかで自分をどのように位置づけ得るか、
ということに対するひとつの姿勢でもあるのかもしれない。
自己の永遠を宇宙の永遠のなかでどのように創造的にむすんでいくか。

 器の形には、何かちゃんとした意味や必然性がある。僕は、デザイナーでは
ないから、そこに何か新しいものをつけ加える必要がない。連綿と連なる形の
中で、玉縁が指し示している方向は確実に、器にとって、いやこの世の全存在
にとって至高のもの、言い換えれば、全存在の根源とも言うべきものである。
僕は、その方向を揺らぐことなく見据えようと思っている。いま、僕が座って
塗り続けているこの場所から俯瞰すると、器の形が過去へも、未来へも、ずら
りと見事に並んでいるのがわかる。僕は、その連なる形の中に埋まっ ていたい。
そうしながら、どこまでもどこまでも塗り続ける。
 そのうち、器の連続性の中に自己が消失すると同時に、驚くべきことが起こ
った。
 一見、それと全く逆の事態が発生するのだ。連続性の中にいながら、徹底し
て僕の器を体得した瞬間に、なんと僕の器が、ずらりと過去から、永遠の彼方
まで連続しているのが見えてくるのだ。それは、自己の消失とともに立ち現れ
た、新たな僕自身の姿だった。連続するものに繋がりながら、僕の個人的な好
みを徹底し、器の形も色も我がものとすることにより初めて、何か永遠に触れ
るような、普遍性といったものが立ち現れてくるのではないだろうか。
 器のすべての形。それを真横からみたときに現れる線は、無限の軌 跡である。
その無限性の中に一度浸りきり、さまよい、その場所からたった一本の線を自
ら見つけ出すこと。同時に、その線を連続するすべてのものと関連づ けること。
その一瞬においてのみ、僕は僕になることを知り、僕はこの世界と繋がること
ができるのだ。僕は、無限の中から、偶然に立ち現れる一本の線を掴み取って
いるにすぎない。その線自体に本来的な意味も理由も根拠もない。だがそのこ
とを知りながら、それを連なるものと結ぶことによって、どうにか意味や根拠
を産み出そうとしいている。それがいまここにいる僕なのだ。
(P.382-382)