風のブックマーク2

 嵐山光三郎『悪党芭蕉』


2006.5.9

 

■嵐山光三郎『悪党芭蕉』(新潮社/2006.4.25.発行)

GWは、芭蕉とともにあった。
机上の芭蕉ではあったが。
そのきっかけになったのは、嵐山光三郎の『芭蕉紀行』(新潮文庫)。
さらにそのきっかけは、寺田農の朗読する『奥の細道』だった。
そして朗読にいまひとつ乗り切れないところもあったので、
この際、芭蕉につきあってみようかと思ったのが、
芭蕉の歩いた道を辿った嵐山光三郎の『芭蕉紀行』だったわけで、
これがなかなか、というか、琴線に触れたというか。

その途上で、新刊の『悪党芭蕉』が出ているのを知った。
こういうシンクロがあったときには、やはりサインとして理解するのが筋だろう。
ということで迷わず、芭蕉三昧ということに。
それにしても芭蕉は一筋縄ではいかない。
まさにこの「悪党」という言葉に象徴されるように謎は深い。

「芭蕉は大山師だ」といったのは、芥川龍之介だったそうである。
また、それ以前に芭蕉を批判したのは正岡子規だったそうな。
ともに芭蕉をブランド化する宗匠への反感からのものだったようだが、
確かにある種「芭蕉は宗教と化した」というところもあったのだろう。
そこで、嵐山光三郎は、「老人アイドルと化した芭蕉」を
「芭蕉もひとり、私もひとり、読者もひとりの地点に立つところから考える」
ということで、「俳聖」ではなく、むしろ「悪党」としての視点から
この『悪党芭蕉』が成った、というわけだが、
「おわりに」にもあるように、
「この1冊を書き終えて、正直いってへとへとに疲れた。
知れば知るほど、芭蕉の凄味が見えて、どうぶつかったって
かなう相手ではないことだけは、身にしみてわかった」そうである。
たしかに、「悪党」といわれるに値する人のほうがずっとふところが深いのは 確かである。
また、悪党の弟子たちも、これもまた曰くありげな人物ばかりであって、
芭蕉はいったい何をしていたのだろうか、気になって仕方がない。
そして、あの残された俳句、紀行文である。
ちょっとやそっとでとらえられる相手ではない。

江戸の蕉門は、旗本や豪商にまじって、其角を中心とする遊び人が多かった。
芭蕉が没する年の元禄六年(一六九三)、幕府が出す「生類憐れみの令」は
ますますエスカレートし、魚釣りが全面禁止となり、釣船営業停止となった。
其角はそれをからかった句を詠んでいる。
「奥の細道」のあとに芭蕉が旅しようと考えていたのは長崎である。長崎は
去来の故郷であった。江戸へ下ったとき、芭蕉の目にとまったのは紅毛人の
カピタンだった。長崎はまるごとカピタンの町で、悪所でもあった。貿易港
だから、抜荷船が出没し、磔刑、斬首となる者が続出していた。
繁栄する都市に犯罪はつきもので、芭蕉の本能は都市をめざす。欲に目がく
らみ、身を破滅させてしまうほどの地が芭蕉をひきよせ、そこに俳諧が成立
する。
山国育ちの芭蕉が、京都、名古屋、江戸を拠点にしたのはむしろ当然であっ
た。
蕉門の強さは、門人たちの闘争にあり、各派がはりあって論争したことによ
る。芭蕉没後、弟子達が四分五裂したからこそ、最終的に芭蕉が残ったので
ある。

そういえば、芭蕉が「軽み」を打ち出したとき、
弟子達の多くがそれに反旗を翻したというのも面白いところである。
そういう弟子達とのあれこれもまた芭蕉を読むスリリングなところだろうか。
そういうのが今回ようやくわかりかけてきたかなというところ。

ところで、今ぼくの鞄には『三頭火句集』(ちくま文庫)が
さりげなくはいっていたりもする。
うしろすがたのしぐれてゆく放浪の俳人。
20年ほどまえになるが、松山の一草庵に
新聞のシリーズ広告の取材に出かけたことなどを思い出す。
そのころはまったくといっていいほど関心がなかったのだけれど、
やはり歳のせいもあるのだろうか、ようやくその言葉の面白さが
染みこんでくるようになったという感がある。

悪党は悪党なりに放浪は放浪なりに
言葉がじわりとぼくにわけいってくる不思議とでもいおうか。